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千葉地方裁判所 昭和47年(わ)17号 判決

《本籍・住居》《省略》

木材業 秋山八男

昭和二二年七月一日生

〈ほか五四名〉

被告人秋山一郎、同F、同天川二郎、同石谷三郎、同市村四郎、同梅川五郎、同小平六郎、同小平七郎、同大川八郎、同笹野九郎、同中下十郎、同山田一夫に対する兇器準備集合、被告人岡山二夫、同岡川三夫、同D、同鈴村四夫、同深山五夫、同村中六夫、同柳七夫、同山村八夫、同吉川九夫に対する兇器準備集合、公務執行妨害、被告人今田十夫、同岡谷一男に対する兇器準備集合、公務執行妨害、現住建造物等放火、被告人秋山二男、同岩川三男、同戸田四男、同林五男に対する兇器準備集合、公務報行妨害(訴因変更後の訴因、兇器準備集合、公務執行妨害、傷害、傷害致死)、被告人相田六男、同葵七男、同秋山八男、同石田九男、同石田十男、同石田一雄、同C、同植田二雄、同梅田三雄、同梅山四雄、同A、同B、同奥山五雄、同E、同齊田六雄、同實山七雄、同島山八雄、同島川九雄、同杉下十雄、同曽一平、同寺川二平、同長谷三平、同広川四平、同古山五平、同前川六平、同町七平、同栁田八平、同龍川九平に対する兇器準備集合、公務執行妨害、傷害、傷害致死各被告事件について、当裁判所は、検察官會田宣明、清澤義雄、大谷隼夫出席のうえ審理し、次のとおり判決する。

主文

1  被告人秋山一郎を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

2  被告人Fを懲役一〇月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

3  被告人天川二郎を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

4  被告人石谷三郎を懲役一年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

5  被告人市村四郎を懲役一年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

6  被告人梅川五郎を懲役一年に処する。

未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

7  被告人小平六郎を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

8  被告人小平七郎を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

9  被告人大川八郎を懲役一年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

10  被告人笹野九郎を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

11  被告人中下十郎を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

12  被告人山田一夫を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

13  被告人今田十夫を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予する。

14  被告人岡山二夫を懲役一年一〇月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

15  被告人岡川三夫を懲役一年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

16  被告人Dを懲役一年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

17  被告人鈴村四夫を懲役一年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

18  被告人旧姓沼田こと岡谷一男を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予する。

19  被告人深山五夫を懲役二年に処する。

未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

20  被告人村中六夫を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

21  被告人柳七夫を懲役一年四月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

22  被告人山村八夫を懲役一年八月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

23  被告人吉田栄勝を懲役一年四月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

24  被告人相田六男を懲役二年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

25  被告人葵七男は無罪。

26  被告人秋山八男を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

27  被告人秋山二男を懲役二年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

28  被告人石田九男を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

29  被告人石田十男を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

30  被告人石田一雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

31  被告人Cを懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

32  被告人岩川三男を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

33  被告人植田二雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

34  被告人梅田三雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

35  被告人梅山四雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

36  被告人Aを懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

37  被告人Bを懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

38  被告人奥山五雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

39  被告人Eを懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

40  被告人林五男を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

41  被告人齊田六雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

42  被告人實山七雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

43  被告人島山八雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

44  被告人島川九雄を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

45  被告人杉下十雄は無罪。

46  被告人曽一平は無罪。

47  被告人寺川二平を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

48  被告人戸田四男を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

49  被告人長谷三平を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

50  被告人広川四平を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

51  被告人古山五平を懲役二年六月に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

52  被告人前川六平を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

53  被告人町七平を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

54  被告人栁田八平を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

55  被告人龍川九平を懲役二年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

56  被告人らに対し、別紙訴訟費用負担表記載のとおり訴訟費用を負担させる。

理由

(注) 以下、理由中の判決文に用いた略語、用語は、次の略語、用語例による。

略語   正式名称ないし内容

兇準事件 兇器準備集合被告事件

(公訴事実の要旨)

被告人らは、約八〇〇名と共謀のうえ、第二次代執行対象地及びその周辺で警備中の警察官らの生命、身体、財産に対し、共同して危害を加える目的をもって、昭和四六年九月一六日午前三時ころから同日午前一一時ころまでの間、多数の火炎びん、丸棒、竹竿等の兇器を携行して準備し、千葉県山武郡芝山町香山新田所在の通称小屋場台から、成田市天神峯一一三番地先通称東峰十字路を経て同県香取郡多古町一鍬田丹波山付近山林に至る間を集合移動した。

公妨事件 公務執行妨害被告事件

(公訴事実の要旨)

被告人らは、約八〇〇名と共謀のうえ、同月一六日午前六時五〇分ころから同日午前七時四〇分ころまでの間、前記東峰十字路付近において、違法行為の規制、検挙等の任務に従事中の千葉県警察本部長指揮下の堀田大隊所属の警察官に対し、丸棒、竹竿等で突き、殴打し、石塊、火炎びんを投げつけるなどの暴行を加えてその職務の執行を妨害した。

供述(五〇公) 第五〇回公判調書中の証人或は被告人の供述記載若しくは証人或は被告人尋問調書(但し、第一一三回以降は、当公判廷における供述を示す。)

検面 検察官に対する供述調書(なお、書証の作成日付につき、「昭和四七年七月二五日付」は(四七・七・二五付)と表示する。以下、同様。)

員面 司法警察員に対する供述調書

実況 司法警察員作成の実況見分調書(なお、実況の次の括弧書は作成者の氏名を示す。)

検証 司法警察員作成の検証証書(なお、括弧内の氏名は前と同じ。)

加藤写真 司法警察員加藤栄治作成の写真撮影報告書

若杉写真 司法警察員若杉賢治作成の写真撮影報告書

諸岡写真 諸岡恒撮影の現場写真(司法警察員大須賀重治外一名作成の「警察官殺害現場写真の複製について」と題する書面)

川田写真 右諸岡写真中の川田三郎の写真

森井写真 右諸岡写真中の森井信行の写真

柏村写真 右諸岡写真中の柏村信治の写真

日中 日本中国友好協会(正統)

共労党 共産主義労働者党

プロ学同 プロレタリア学生同盟

人民連帯 日本共産主義人民連帯

ML派 日本マルクス・レーニン主義者同盟

ブンド叛旗派又は叛旗派 共産主義者同盟「叛旗」編集委員会派

反帝学評 全国反帝学生評議会連合

ブンド情況派 共産主義者同盟再建準備委員会

フロント 社会主義学生戦線

労学連 三里塚闘争労働者学生連絡協議会

宇大全共闘 宇都宮大学全学共闘会議

反対同盟 三里塚芝山連合空港反対同盟

青行 三里塚空港反対青年行動隊(なお、青行の上に冠した地名は、その地区の青年行動隊を表わす。)

三高協 三里塚高校生協議会

十字路 東峰十字路

新空港 新東京国際空港

公団 新東京国際空港公団

(本件発生に至る経緯等)

昭和四一年七月四日佐藤内閣は、閣議において、千葉県成田市三里塚と同県山武郡芝山町に新東京国際空港(以下「新空港」という)を建設することを決定し、新東京国際空港公団(以下「公団」という)がその建設事業を遂行することとなった。

公団は、その後、新空港建設予定地の任意買収に着手したが、新空港建設に反対する地元農民等で結成された三里塚・芝山連合空港反対同盟(以下「反対同盟」という)や、これを支援する諸セクト等の激しい反対闘争により、用地の任意買収が事実上不可能となったため、昭和四四年一二月一六日建設大臣から土地収用法に基づく事業認定を受け、土地収用法上の手続によって用地の一部を取得し、逐次建設工事を施行していたが、反対同盟による反対闘争等によって新空港建設事業が著しく遅延するに至っていた。そのため、公団は、更に、昭和四五年一二月二八日建設大臣から公共用地の取得に関する特別措置法に基づく特定公共事業の認定を受け、昭和四六年二月三日には、第一期工事区域内の緊急に取得を必要とする成田市駒井野字張ヶ沢一一八七番の一、一一九二番の一(通称駒井野団結小屋)ほか一〇筆の土地につき、千葉県収用委員会に緊急裁決の申立をし、昭和四六年六月一二日、同委員会から、右土地の一部を収用し、明渡期限及び権利取得時期を同年八月一二日とする緊急裁決を得た。そして、公団は、右緊急裁決の対照となった土地所有者が明渡期限になってもその明渡しに応じなかったため、同年八月一三日千葉県知事に対し、成田市駒井野字天並野二二一二番の二九等の二五筆の土地についての代執行を請求するに至った。そこで、千葉県知事は、同年九月一日付で前記駒井野字天並野二二一二番の二九等五筆の各土地明渡義務者に対し、所定期日までに明渡しをすべき旨の戒告書を送付したが、その履行がなされなかったため、同年九月一一日付で代執行時期を同月一六日から同月二九日までとする代執行令書を送付し、ここにいわゆる「第二次代執行」が実施されることとなった。

被告人秋山八男、同石田九男、同石田一雄、同C、同岩川三男、同植田二雄、同實山七雄、同長谷三平、同町七平は、いわゆる岩山地区の反対同盟青年行動隊(以下「岩山青行」等という)に所属するもの、被告人秋山一郎、同石谷三郎、同小平七郎、同秋山二男、同A、同B、同林五男、同齊田六雄、同寺川二平、同戸田四男、同前川六平、同栁田八平、同龍川九平は菱田青行に所属するもの、被告人笹野九郎、同相田六男、同Eは千代田青行に所属するもの、被告人石田十男、同梅田三雄、同島川九雄は三里塚青行に所属するもの、被告人F、同Dは三里塚高校生協議会(以下「三高協」という)に所属するもの、被告人天川二郎、同梅山四雄、同岡山二夫、同深山五夫、同柳七夫、同山村八夫、同今田十夫、同旧姓沼田こと岡谷一男は共産主義者同盟「叛旗」編集委員会派(以下「叛旗派」又は「ブンド叛旗派」という)に所属或はこれに同調するもの、被告人市村四郎、同中下十郎、同吉川九夫は日本マルクス・レーニン主義者同盟(以下「ML派」という)に所属或はこれに同調するもの、被告人小平六郎、同山田一夫は宇都宮大学全学共闘会議(以下「宇大全共闘」という)に所属するもの、被告人大川八郎、同梅山四雄は日本共産主義人民連帯(以下「人民連帯」という)に所属するもの、被告人岡川三夫は共産主義者同盟再建準備委員会(以下「情況派」又は「ブンド情況派」という)に所属するもの、被告人鈴村四夫、同奥山五雄、同島山八雄はプロレタリア学生同盟(以下「プロ学同」という)に所属或はこれに同調するもの、被告人村中六夫は全国反帝学生評議会連合(以下「反帝学評」という)に所属するもの、被告人広川四平、同古山五平は日本中国友好協会(正統)(以下「日中」という)に所属するものであるが、これら各青行・三高協とこれを支援する日中、プロ学同、人民連帯、ML派、叛旗派、情況派、反帝学評、宇大全共闘、フロント、共労党、労学連等のいわゆる中核系を除く諸セクトは、第二次代執行を実力で阻止する旨を呼号していたものであるが、昭和四六年九月初めころ中谷津青年館で開催された各青行と諸セクト代表者による代表者会議をはじめとして、同月上旬の芝山農協における青行の全体会議、同月一〇日ころの中郷公民館における菱田青行の会議、同月上旬の日中の団結小屋における日中の会議、同月一二日ころの岩山公民館における岩山青行の会議、同月一五日夕刻からプロ学同の中谷津団結小屋で行われた地区代表者会議等、同年九月上旬から同月一五日にかけて開催された代表者会議、或は各青行及び各セクトの集会において、青行・三高協とこれを支援する諸セクトは、第二次代執行に際しては、いわゆる駒井野砦には入らず、代執行地点の外周から駒井野へ向い、代執行対象地点で闘う者らと呼応して代執行を阻止する。丸棒、竹竿、火炎ビン等の武器は各青行、各セクトにおいて準備すること、そしてまた、その後、各青行、各セクトは、代執行当日の九月一六日には、午前三時ころに小屋場台(芝山町香山新田小字小屋場台の秋山一郎方付近)に集結することを決定した。そして、菱田青行においては、被告人寺川二平、同B、同A、同秋山一郎らが空びんを、三宮文男らがガソリンを調達したうえ、九月一四日ころ、寺川二平方と三宮文男方において、被告人寺川二平、同Aら約九名の者が二手に分かれて火炎びんを製造し、岩山青行においては、被告人岩川三男、同長谷三平が空びん、ガソリンを、被告人實山七雄らが空びんを調達したうえ、九月一四日ころ、朝倉部落の秋葉空夫方の空家において、被告人岩川三男、同長谷三平、同實山七雄ら約五名のほかML派の雨下こと被告人中下十郎らも加わって火炎びんを製造し、三里塚青行においては、九月一五日ころ、被告人島川九雄、同石田十男らが県有林内で長さ約一メートル位の杉の丸棒や長さ二、三メートルの竹竿を製造したほか、千代田青行、三高協は火炎びんを、叛旗派、日中は火炎びん、生木の棒と竹竿、プロ学同も火炎びんと生木の棒等、各青行、各セクトにおいてそれぞれ火炎びん、棒、竹竿等の武器を用意した。

そして、第二次代執行当日の昭和四六年九月一六日、午前二時ころから午前四時ごろまでの間に、各青行、三高協約四〇名余り、ブンド叛旗派約五〇名、ブンド情況派約三〇名、共労党、プロ学同は常駐組約三〇名と動員組約四〇名の合計約七〇名、宇大全共闘約三〇名、日中約五〇名をはじめ、各青行、三高協とこれを支援する諸セクト総勢六〇〇名以上の者が山武郡芝山町香山新田小字小屋場台一四六番地の通称小屋場台の秋山一郎方付近に集結した。

一方、千葉県知事及び公団総裁は、反対同盟やこれを支援する諸セクトの動向から、第二次代執行の実施にあたっては、激しい抵抗や違法行為の発生を伴う抵抗、妨害行為が予想されたことから、千葉県警察本部に対し警察官の出動を要請した。

千葉県警察本部は、右要請に応じて警備出動を決め、第二次代執行の当日である昭和四六年九月一六日、早朝から代執行対象地付近及びその周辺に多数の警察官を配置したほか、東峰十字路及びその付近に神奈川県警察本部から応援派遣された堀田大隊(大隊長堀田安夫警視以下二六一名)を配置し、同所付近において、違法行為の予防、規制、検挙のための警戒、警備の任務に当たらせていた。

(罪となるべき事実)

第一  被告人葵七男、同曽一平、同杉下十雄を除くその余の被告人五二名は、新東京国際空港建設用地内に所在する成田市駒井野字張ヶ沢一一八七番一(通称駒井野団結小屋或は駒井野砦)ほか三か所の土地等を収用するため千葉県知事が行なう代執行を妨害阻止しようと企て、多数の三里塚芝山連合空港反対同盟青年行動隊員及びこれを支援する諸セクトの者らと共謀のうえ、被告人岡山二夫、同山村八夫を除くその余の被告人らにおいて、右代執行に際し、代執行対象地点及びその周辺で違法行為の規制、検挙などの任務に従事中の千葉県警察本部長指揮下の多数の警察官らの生命、身体、財産に対し、共同して害を加える目的をもって、昭和四六年九月一六日午前三時ころから同日午前一一時ころまでの間、多数の他の青行隊員及びこれを支援する諸セクトの者らとともに、多数の丸棒、竹竿、火炎びんなどの兇器を携行準備し、千葉県山武郡芝山町香山新田小字小屋場台付近から成田市天神峯一一三番地先通称東峰十字路付近を経て同県香取郡多古町一鍬田丹波山二五二番地付近山林内に至る間を集合移動した

第二  被告人秋山八男、同相田六男、同秋山二男、同石田九男、同石田十男、同石田一雄、同C、同岩川三男、同植田二雄、同梅田三雄、同梅山四雄、同A、同B、同奥山五雄、同E、同林五男、同齊田六雄、同實山七雄、同島山八雄、同島川九雄、同寺川二平、同戸田四男、同長谷三平、同広川四平、同古山五平、同前川六平、同町七平、同栁田八平、同龍川九平、同今田十夫、同岡山二夫、同岡川三夫、同D、同鈴村四夫、同岡谷一男、同深山五夫、同村中六夫、同柳七夫、同山村八夫、同吉川九夫は、ほか多数の青行隊員及びこれを支援する諸セクトの者らと共謀のうえ、被告人岡山二夫、同山村八夫を除くその余の被告人らにおいて、ほか多数の者とともに、前同日午前六時五〇分ころから同日午前七時四〇分ころまでの間、成田市天神峯一一三番地先通称東峰十字路付近において、前記任務に従事中の千葉県警察本部長指揮下の堀田大隊所属の警察官に対し、丸棒、竹竿で突き、殴打するとともに、多数の石塊、火炎びんを投げつけるなどの暴行を加え、もって右警察官の職務の執行を妨害した

第三  前記第二の犯行の際、被告人秋山八男、同相田六男、同秋山二男、同石田九男、同石田十男、同石田一雄、同C、同岩川三男、同植田二雄、同梅田三雄、同梅山四雄、同A、同B、同奥山五雄、同E、同林五男、同齊田六雄、同實山七雄、同島田八雄、同島川九雄、同寺川二平、同戸田四男、同長谷三平、同広川四平、同古山五平、同前川六平、同町七平、同栁田八平、同龍川九平は、ほか多数の者と共謀のうえ、更に前記東峰十字路北方の同市天神峯九五番地先から同一三七番地先に至る間の路上等において、前記堀田大隊第一中隊第一小隊(福島誠一小隊長)所属の警察官柏村信治らを取り囲んで火炎びんを投げつけ、或は全身を丸棒で突き、殴打し、足蹴にするなどの暴行を加え、よって別紙被害者一覧表記載の警察官に対し、同表記載のとおりの傷害を負わせ、その結果、前記柏村信治ら同表記載の三名をして、同表記載の日時場所において、同表記載のとおりの脳挫傷兼頭蓋内出血等により死亡するに至らしめた

第四  被告人今田十夫、同岡谷一夫の両名は、同月二〇日正午ころ、成田市取香字馬洗七〇番ノ二の小泉よね方(第一八地点)の代執行が抜打ち的に開始され、執行されたことを知るや、ブンド叛旗派の約一〇〇名ほか多数の反中核系諸セクトの者とともに、抜打ち代執行に対する報復や新空港建設を阻止するため、新空港建設関連会社の飯場等を焼打ちすることを共謀のうえ、同月二〇日午後八時四五分ころ、多数の火炎びんなどを携帯して千葉県山武郡芝山町大里大字大野境一九番地の二所在のフジタ工業株式会社新空港作業所宿舎並びにこれに隣接する同所一八番地の一所在の新東京国際空港土木工事第二工区西松・飛島建設株式会社共同企業体事務所及び宿舎に至り、右宿舎、事務所へ点火した火炎びん多数を投げつけて火を放ち、よって、小山勘次ら従業員二四名が現に住居に使用している前記フジタ工業株式会社新空港作業所宿舎等四棟(各プレハブ造り二階建、延床面積合計約一〇〇・八平方メートルのもの二棟及び同延床面積合計約一九一平方メートルのもの二棟)及び西松建設の事務所一棟(プレハブ造り平家建、床面積約九八・八平方メートル)を全焼させるとともに、西松建設の事務員露木太一ら二〇人が現に住居に使用している前記共同企業体宿舎一棟(プレハブ造り二階建、延床面積合計三一一・〇四平方メートル)及び土質試験室一棟(プレハブ造り平家建、床面積約一九・四四平方メートル)の各一部を焼燬した

ものである。

(証拠の標目)《省略》

(被告人岡山二夫、同山村八夫の共謀責任について)

共犯者津田雄二郎の検面(四七・二・一六付、四七・二・一八付)、同岡林茂の検面(四七・一・九付、四七・一・一〇付。但し、採用部分のみ。)、同石川洋の検面(四七・三・九付、四七・三・二一付、四七・三・二四付。但し、採用部分のみ。)、同浅井雄治の検面(四七・二・二五付、四七、二・一八付。但し、採用部分のみ。)及び同池田寛二の検面(四七・二・八付。但し、採用部分のみ。)に岡林茂の供述(七五公)、同浅井雄治の供述(五五・八・三〇期日外証人尋問調書)、被告人岡山二夫の供述(一二九公)、同山村八夫の供述(一二九公)を総合すると、

一  昭和四六年九月一五日午後七時ころから、辺田公民館において、叛旗派の参加者全員による全体集会が現闘の常駐者、同盟員の主導で開かれ、右集会の席上、被告人岡山が、三里塚に常駐している者として地図を示しながら三里塚における闘争の経過、現状、現地の地形や、九月一六日には外周から駒井野をめざして進む闘争方針について説明したほか、小田こと被告人今田、峰こと被告人深山らも演説し、九月一六日には、青行、日中正純派、フロント、プロ学同らいわゆる青行フラクと共闘して戦う。外周から駒井野砦に迫り、そこを包囲している機動隊を攻撃する。ヒット・エンド・ラン方式で攻撃する旨の闘争方針が示されたこと

二  右全体集会終了後、同日午後八時ころから、右公民館近くの叛旗派団結小屋において、各地区代表者による地区代表者会議が開かれ、その席上、被告人山村が翌九月一六日の具体的行動について説明し、武器としてあかしやの棒と火炎びんを使うが既に用意してあること、当日の部隊の指揮を小田こと被告人今田、サブを峰こと被告人深山とする旨の提案をし、出席者全員の了承を得たこと

の各事実が認められ、これらの事実によれば、被告人岡山、同山村の両名が、叛旗派の一員として、他の叛旗派の者とともに、叛旗派の方針に従って本件第二次代執行阻止闘争を闘い抜く決意を有し、これに参加していたことは明らかであるから、たとえ、右両名が同派の方針、役割分担の関係上、兵站、救対を担当することになったからといって、本件兇準、公妨事件について、共謀共同正犯の責任を負うものといわざるを得ない。

なお、被告人山村及び弁護人は、被告人山村は会議を主導する立場にはなく、従って、会議において、出席者に対し闘争方針等を発言したり、伝達できる立場にはなかった旨述べるが、共犯者特に岡林茂の供述は、被告人山村の特徴を正確に捉えたうえ、被告人山村が団結小屋で開かれた地区代表者会議において発言した内容を極めて詳細、具体的に供述しているものであって十分信用できるばかりでなく、現に、叛旗派の一員として本件闘争に参加し、しかも、兵站、救対を担当し、全体集会において、参加者全員に救対カードを配付している事実をも合わせ考慮すると、本件兇準、公妨事件についての共謀共同正犯としての責任を免れ得ないものといわざるをえない。

(被告人及び弁護人らの主張に対する判断)

被告人及び弁護人らは、新空港の建設には、三里塚への位置決定、その後の計画、遂行、ことに本件にあっては建設大臣による特定公共事業の認定、千葉県収用委員会の緊急裁決、そしてこれに基づいて行なわれた昭和四六年九月一六日及び同月二〇日の行政代執行(いわゆる第二次代執行)に至るまでの過程において、数々の違法、不当な点が存したもので、被告人らの本件各所為は、この違法、不当な新空港建設、それに向けられた違法、不当な行政代執行から地元農民の生活と権利を守ろうとしたものであって、その動機、目的において正当であり、また、その必要性も公共性も全く認められない新空港の建設に比して、被告人らの守ろうとした地元農民の生活と権利はその法益においても優るものであり、しかも、右のような違法、不当な侵害に対して緊急やむを得ず、相当な手段、方法でなされたものであるから、それは正当防衛に該当し、かつまた、超法規的に違法性が阻却される旨主張するので、以下順次判断する。

1  新空港の建設、位置決定の経緯については、関係証拠によれば必ずしも明朗なものではなく、また、その建設当初から諸々の問題を包含していたうえ、地元農民の相当部分が、新空港の建設によって、その生活に深刻な影響を受けることから反対の意見を強く表明していたにもかかわらず、政府、空港公団などの関係諸機関においては、新空港建設の必要性、緊急性を重視するあまり、その心情を十分理解せず、地元農民の理解と協力を求めるための努力に欠けた点も窺われ、そのために地元農民との間に無用の摩擦を引起こし、今日まで種々の事件の発生を見るなど、様々な問題を抱え、また、多くの批判されるべき点が見られ、現に様々な批判が加えられているところであるが、そのような政治的あるいは行政的な当・不当の問題があるにしても、それだけで直ちに弁護人らの主張するように新空港の建設それ自体までが違法不当なものであるとまでは認められず、ましてや、その反対のためであれば、いかなる行動をもその手段、方法を問わずに合法化するほどに違法、不当なものとは到底認められない。

2  次いで、建設大臣による特定公共事業認定処分について検討するに、弁護人らは、右認定処分の根拠法規である公共用地の取得に関する特別措置法(以下「特措法」という)は憲法二九条三項の補償前払の原則に違反し、また、建設大臣による代行裁判権を規定する点は地方自治の本旨に悖るもので憲法九二条に違反する違憲立法である、仮にそうでないとしても、緊急裁決後一〇年以上経過しても補償裁決がなされず、仮補償金のままで放置されている実態が憲法二九条三項に違反しており、よって、特定公共事業認定処分自体も違憲無効である旨主張するが、そもそも憲法二九条三項は、補償の時期については何ら言及していないものであって、事前あるいは同時補償が望ましいにせよ、そうでなければ同条項にいう「正当な補償」とならないものとまでは解されず(同旨、最高裁昭和二四年七月一三日大法廷判決刑集三巻八号一二八六頁)、従って、憲法二九条三項をもって補償前払の原則を定めたとする弁護人らの見解及びこれを前提とする右各主張は採用しがたく、また、代行裁決権の存在についても、それが必ずしも直ちに地方自治の本旨に反するとは認められないうえ、本件においては、右代行裁決にまでは至っていないものであるから、いずれにしても弁護人らの右主張は理由がない。

弁護人らはさらに、新空港のいわゆる第一期建設事業区域について特措法七条の特定公共事業認定処分をしたことは、全体の空港建設計画自体の違法性、不当性に照らして、同条四号の定める高度の公共性、緊急性をもち得ないことを看過し、また、第二期建設事業区域や燃料輸送などの関連事業を含めなかった点において長期にわたる国際航空輸送需要に対処することが不可能なものであって、それのみでは高度の公共性も緊急性も実現できないものにもかかわらず、その判断を誤ってなされた違法、無効な処分である旨主張するが、空港建設計画それ自体が直ちに違法、不法なものといいえないことは前述のとおりであり、また、特措法は土地収用法の特例を定めるもので、緊急裁決等当該地域住民の権利義務に重大な影響を及ぼすことのあることにかんがみれば、当時具体的な着工予定のなかったと認められる第二期建設事業区域や、事業主体の異なるもの、あるいは空港公団が別途任意買収の努力をすると認められた関連事業に関するものを特定公共事業認定処分に含めずに、起業地を最小限に止めたことはむしろ相当なものというべく、これらを含めねば高度の公共性、緊急性が実現できないとする弁護人らの見解は採用できない。

3  さらに、本件緊急裁決に関する弁護人らの主張について判断する。

(一)  弁護人らは、特措法二〇条一項の緊急裁決にあたっては、収用委員会は同条項に定めるいわゆる緊急性要件の存否について判断すべきところ、本件緊急裁決においては、千葉県収用委員会は右緊急性要件を判断事項としない違法を犯したものであり、仮にそうでないとしても、燃料輸送問題等から昭和四七年初頭開港が既に不可能であることは明らかであったにもかかわらず、緊急性要件を肯認した同収用委員会の判断には大きな誤りがあったもので、いずれにしても、本件緊急裁決は、右緊急性の要件に欠ける違法なものである旨主張するが、千葉県収用委員会作成の緊急裁決書写等関係証拠によれば、千葉県収用委員会は、本件緊急裁決申立に対する審理の主眼を、収用裁決の対象となる土地、物件等の補償額の認定に置いてはいたものの、緊急性要件についても当然にその判断事項として、空港公団の事業計画説明に基いて右要件の存在を認定して緊急裁決をなすに至ったことが認められ、審理途中での混乱があったにせよ、収用に反対する地元住民の心情を十分に理解せず、空港公団側の主張のみで緊急要件を判断した点において些か慎重さに欠ける嫌いはあるものの、その判断をしなかったものということはできない。

そして、前記各証拠及び平野靖識外五〇名に対する公務執行妨害等被告事件(通称第一次代執行事件)の第三八回公判及び公判準備調書中の証人友納武人の供述部分の写、通称七月仮処分事件の第六八回公判調書中証人友納武人の供述部分写、新東京国際空港公団総裁作成の特定公共事業認定申請書写等関係証拠によれば、我国における航空輸送需要の急激な増大、大型旅客機の就航が見込まれていたことなどから、これまでの東京国際空港(羽田空港)ではもはや発着可能回数、滑走路の長さなど質量いずれの面においても、その対応が不可能と考えられたため、早急に新たな空港を建設し、開港する必要性が存し、本件当時においては、右羽田空港はその処理能力に比して極めて過密な状態となって、事故発生の危険すら感じられていたこと、そのために、空港公団は本件新空港の建設を急いでいたものの、反対運動などから用地買収が容易に進捗せず、当初の開港予定を遅らせた後、昭和四七年初頭開港を目指して進めていた第一期建設事業区域内についてすら、昭和四六年に入ってもまだ未買収地が残っていた状態の中で本件緊急裁決の申立に及んだこと、そして、用地取得後の建設工事等に必要な期間などの関係からしても、右申立にかかる土地を緊急に取得する必要があり、これが遅れれば必然的に新空港建設事業、認定された特定公共事業との関係でいえば第一期建設事業の執行に支障が生じ、ひいては、右に述べたように緊急に必要とされていた新空港の開港が遅延する虞れの存したことが認められる。

ところで、新空港が空港として十分機能するためには、燃料の輸送問題を解決することが必要不可欠であることは弁護人の主張するとおりであり、また、結果的に新空港が右第一期建設事業部分のみによって暫定開港に至ったのが昭和五三年五月二〇日であって、このように開港が遅延したことも、反対派による強固な徹底した反対運動の展開が一因をなしているとはいえ、その主たる原因が空港公団の燃料輸送計画の杜撰さにある点も弁護人主張のとおりである。

しかし、前掲各証拠によれば、右燃料輸送問題については、本件緊急裁決当時、千葉県収用委員会はもとより、空港公団、千葉県、運輸省のいずれにおいても、反対運動等さほどの支障もなく、昭和四七年初頭の開港目標時までにはパイプライン工事が完成するものとの見通しを有していたことが認められ、その計画の不備や沿線住民の強い反対運動により実現できなかった事実に照らすと、収用委員会、空港公団をはじめとする関係諸機関の不手際、判断の甘さなど厳しく非難されるべきところではあるものの、本件当時においては、空港公団が適切に対応しても、なお、右パイプラインを昭和四七年初頭の開港予定に間に合うように完成することが一見明白に不可能であったとまでは断言できないばかりか、その完成に至るまで、暫定的に他の輸送方法によってこれを補うことも可能であること等を併せ考慮すると、右燃料輸送問題を含めて、空港公団が目標としていた昭和四七年初頭開港を十分可能なものとして前記緊急性要件を肯認した千葉県収用委員会の判断は、前述のとおり、その審理過程に問題は存するものの、結論において違法なものとまでは断言できない。

(二)  弁護人らは、空港公団が千葉県収用委員会に提出した本件緊急裁決申立書には、特措法二〇条二項、同法執行規則(昭和三六年建設省令二五号)四条所定の様式に違反して、緊急裁決申立の理由に関する記載が欠如していたにもかかわらず、千葉県収用委員会が何らの補正を命ずることもなくこれを受理したことは違法である旨主張する。

たしかに、新東京国際空港公団総裁作成の昭和四六年二月三日付緊急裁決申立書の写等によると、弁護人主張のとおり、本件緊急裁決申立書に申立の理由の記載がなく、千葉県収用委員会もそれを看過して受理したことが認められるが、緊急裁決の申立の理由の存否、肯否の判断は申立書の記載だけでなく、むしろ、実質的審理を通じてでもなされるものであること、そして、関係証拠によれば、本件申立についての審理においても、起業者たる空港公団による事業計画についての説明がなされ、それによって収用委員会が緊急裁決の判断をしていると認られるところであって、これに被収用者の側からしても、その審理において起業者の主張を十分に知り得るものであることなどを併せ考えると、法の定める方式に従わない本件申立が適法といえないことは当然であるものの、その瑕疵は、本件緊急裁決までも違法、無効とするほどに重大なものとまでは解されない。

(三)  弁護人らは、本件緊急裁決は、前述のとおり、昭和四六年二月三日の申立に対して、同年六月一二日になされたもので、特措法二〇条四項に定める二か月の期間を徒過しており違法である旨主張する。たしかに、右条項の文言からは弁護人ら主張のように解される面がないわけではないが、二か月の期間を徒過した場合について規定する特措法三八条の二ないし六によれば、右二か月の期間を過ぎた後でも、起業者から行政不服審査法七条の不作為についての異議の申立があった場合には、収用委員会は右異議申立の日から一か月以内に緊急裁決をすることができ、また収用委員会から当該事件が建設大臣に送致された場合には、建設大臣において収用委員会に代って緊急裁決できる旨定められているところ、右起業者の異議申立や建設大臣による代行裁決については何ら期間の制限はないのであって、このことからすれば、法は必ずしも前記二か月の期間を過ぎても、収用委員会において審理を続け、緊急裁決をなすことを容認しないものとは解し難く、従って、少なくとも本件緊急裁決が右二か月の期間の経過後になされていることをもって、直ちに違法、無効なものと断ずることはできない。

(四)  次いで弁護人らは、千葉県収用委員会が、本件緊急裁決後一三年以上に亘って補償裁決を行なわずに放置していることは特措法三〇条一項に違反し、ひいては本件緊急裁決自体の違法をもたらすものであるとともに、同法四二条三項によって緊急裁決にかかる仮補償金に対する出訴が禁止されていることからすると、そのまま一三年以上も放置されていることは、被収用者の裁判を受ける権利を実質的に奪うものであって憲法三二条にも違反する旨主張するので検討するに、なるほど千葉県収用委員会が、昭和四六年六月一二日の緊急裁決後一三年以上を経た今日もなお補償裁決を行なわずにいることが認められ、仮に、補償裁決に関する審理を開いた場合の混乱のおそれがあったにしても、一三年以上も補償裁決をせずにいることは、弁護人らが主張するとおり、特措法三〇条一項に違反する疑いを払拭できないところであるが、本件緊急裁決後の事情である右事実をもって、一旦有効に成立した緊急裁決そのものまでが、遡って違法、無効になるものとも解し難く、この理は、憲法三二条について弁護人らが主張するところについても同様であり、弁護人らの右主張は採用できない。

(五)  大木(小泉)よねに対する緊急裁決に関し、弁護人らは、大木よねは成田市取香馬洗七〇番の二の宅地四三七平方メートル(第一八地点)に居住して、同市駒井野字台の田二一〇五番の田一反一畝二〇歩(第一二地点)と同市古込字込前一六五番地の畑(第二四地点)とを耕作して生活していたところ、空港公団は、これを恣意的に分断して右宅地及び田についてのみ緊急裁決の申請をしたものであって、これは緊急裁決申立権を濫用し、大木よねの生活を破壊する目的でなしたものであり、また千葉県収用委員会も、右大木よねの宅地についてはその使用貸借権の価格の見積りが格別困難でないにもかかわらず、土地所有者と一括補償として個別補償を原則とする土地収用法六九条に違反し、その田については、物件調書が提出されていないにもかかわらず、同法四七条の三の一項二号に違反して緊急裁決をなした旨主張するが、本件全証拠を仔細に検討しても、空港公団が弁護人ら主張のような目的をもって本件緊急裁決申請をなしたものとは認められず、また、宅地の使用貸借権の価額についてその見積りを困難とした千葉県収用委員会の判断を違法とも断じ難く、さらに物件調書不提出の点についても、前記田の上に補償を要する格別の物件の存したことは窺われず、土地収用法四七条の三の一項二号は、物件の存否にかかわらず物件調書の提出を義務づけるものと解されるところではあるものの、結果的にはその違法は、本件緊急裁決の効力までも左右するものとは認められず、いずれの点においても弁護人らの前記主張は採用できない。

以上述べたとおり、本件緊急裁決に関する弁護人らの主張には、一部首肯しうるところがあるものの、結局、本件緊急裁決それ自体を違法、無効ならしめるものとは認められず、結論において、これと異なる弁護人らの見解には左袒し難いといわざるを得ない。

4  本件行政代執行(第二次代執行)自体に関しては、弁護人らは先ず、その前提となる緊急裁決に基づく仮補償金の払渡しは持参債務であるところ、本件では仮補償金のうちの一部について現金書留による郵送の方法がとられているが、これは持参債務の本旨に沿う履行とはいえず、従ってこれに対する受領拒絶を理由とする供託は無効であり、行政代執行も違法である旨主張するが、仮補償金の払渡しはそのとおり持参債務と解されるものの、現金書留による郵送も、当時の状況下においては、金銭債務の履行の方法として十分に債務の本旨に従った弁済の提供といえるのであるから、弁護人らの右主張はその前提において失当である。

次いで、弁護人らは、本件第二次代執行の実態は、警察機動隊と作業員らによる殺人的暴挙ともいうべきものであり、団結小屋周辺における警備も、警備に名を借りた反対派に対する兇暴なテロ・リンチであり、さらに、大木よね方に対する抜打ち的代執行は欺瞞に満ちたもので一片の正当性もない旨主張する。

しかし、本件第二次代執行が違法と認められないことは前述のとおりであるが、その執行の内容についてみても、関係証拠によれば、被告人ら反対同盟及びこれを支援する諸セクトの者は、第二次代執行を実力で阻止することを呼号し、多数人で共謀のうえ、多数の火炎びん、石塊、棒等の兇器を準備して、作業員や警備の警察官らに対して投擲するなどの暴挙に出て、多数の警察官、作業員を負傷させるなどしたもので、その攻撃は極めて激しく、かつ、危険なものであったことが認められ、これに対して警察官らのとった行動は、右攻撃を制圧して妨害者を逮捕し、また、行政代執行を遂行するために必要なものであったと認められ、右代執行に藉口して、殊更に新空港建設反対派を弾圧する意図で違法な職務執行がなされたものとは認められず、いずれにしても、第二次代執行の執行それ自体を違法とするものとはいい得ない。

以上、本件代執行に関する弁護人らの主張はいずれも採用できない。

5  また、弁護人及び被告人らは、多くの開拓農民の苦闘の末に全国有数の農業地帯となった北総台地に、空港公団は、地元農民を無視して一方的に新空港の建設を決定したうえ、数々の違法を重ねながら暴力的にこれを遂行し、警察においても、建設に反対する者に対しては、弾圧を目的とする不当逮捕やテロ・リンチを繰返しているのであって、このような違法、不当な侵害に対抗すべく被告人らがなした本件各所為は、その手段、方法において相当なものである旨主張するが、新空港の建設には種々の問題点が存し、また、その過程において、裁判などにより警察を含む行政側の不手際、問題が指摘された事例も存するものの、新空港の建設それ自体を被告人及び弁護人らのいうように違法、不当と解されないことは前述したとおりであり、さらに既に詳述したように、本件代執行についてみてもこれを違法、無効なものとはいい難く、また、その執行内容及びこれに伴う警察機動隊の警備活動についても違法にわたるものとは認められないばかりか、代執行地点から離れた周辺警備の任務に従事中の警察官に向かってなされた被告人らの判示各所為は、いずれも極めて攻撃的かつ危険なものであって、その動機、目的の点を斟酌しても、なお、到底容認しうる手段、方法といえないことは明らかである。

6  さらに、被告人及び弁護人らは、新空港建設は、豊かな北総台地の農業ばかりか、航空機騒音などにより近隣住民の生活を破壊するものであるのに対し、新空港の需要の大部分は、不要不急ともいえる観光旅行客及び代替輸送手段の存する航空貨物であるうえに、空港公団の度重なる不手際などにより多大の国費が濫費されるなど、新空港には一片の公共性もないのであるから、被告人らが本件各所為により守ろうとした法益は、新空港建設よりも遙かに大であり優位である旨主張する。たしかに、被告人及び弁護人らのいうように、新空港の建設によって脅やかされる様々な法益は決して軽視しうるものではなく、また、空港公団の数々の不手際には多くの批判の存するところではあるものの、他面、国際社会の中で四方を海に囲まれた我国にとって、また、今日の航空事情のもとでは国際空港の必要性は極めて大きく、その性質上公共性もまた高度に認められるところであって、被告人及び弁護人らの主張するようなものとは認められない。

以上詳述したとおり、被告人らの判示各所為は、いずれも正当行為とは認められず、また、いわゆる超法規的違法阻却事由が成立するためには、その動機、目的が正当であるのみならず、その手段、方法においても社会通念上相当なものでなければならず、法益の権衡を満たしたうえ、行為全体として社会共同生活の秩序と社会正義の理念に合致することを要するものと解すべきところ、被告人らの判示各所為はいずれもこの要件を満たしているものとは認められず、その他全証拠によるも、被告人らの判示各所為の違法性を阻却すべき事由は認められず、また、本件各犯行の動機、目的、本件各犯行の罪質、態様にかんがみると、その公訴の提起をもって、公訴権の濫用に該当するものとも認められない。

(傷害、傷害致死被告事件について)

被告人相田六男、同葵七男、同秋山八男、同秋山二男、同石田九男、同石田十男、同石田一雄、同C、同岩川三男、同植田二雄、同梅田三雄、同梅山四雄、同A、同B、同奥山五雄、同E、同林五男、同齊田六雄、同實山七雄、同島山八雄、同島川九雄、同杉下十雄、同曽一平、同寺川二平、同戸田四男、同長谷三平、同広川四平、同古山五平、同前川六平、同町七平、同栁田八平、同龍川九平に対する傷害、傷害致死被告事件(被告人秋山二男、同岩川三男、同戸田四男、同林五男については、訴因変更後のもの。)の公訴事実の要旨と争点

右被告人らに対する公訴事実の要旨は、「被告人は、多数の学生・三里塚芝山連合空港反対同盟青年行動隊員らと共謀のうえ、昭和四六年九月一六日午前六時五〇分ころから同日午前七時四〇分ころまでの間、成田市天神峯一一三番地先通称東峰十字路付近において、違法行為の規制、検挙等の任務に従事中の千葉県警察本部長指揮下の堀田大隊所属の警察官に対し、丸棒・竹竿で突き、殴打し、多数の石塊・火炎びんを投げつけるなどの暴行を加え、その際、同十字路北方の同市天神峯九五番地先から同一三七番地先に至る間の路上付近において、堀田大隊所属警察官柏村信治ほか九名に対し、火炎びんを投げつけ、全身を丸棒・竹竿等で突き、殴打し、足蹴りするなどの暴行を加え、よって川田三郎ほか六名に加療六か月以上乃至全治二か月の下顎骨骨折の傷害を負わせるとともに、柏村信治ほか二名に脳挫傷兼頭蓋内出血等の傷害を負わせ、そのころから同日午前九時四〇分ころまでの間において、同東峯十字路北方道路上或は成田市成田四八三番地藤倉病院内において死亡させた。」というものであるが、本件各被告人らが右事件の犯人として検挙、起訴された経緯は、次のとおりである。すなわち、本件及び兇準、公妨事件で起訴された被告人全員についての逮捕、勾留関係資料によると、右事件については、三里塚空港反対青年行動隊のほか、多数の学生集団が関与していたと認められたことから、昭和四六年一二月八日、まず、三里塚青行の石田十男、菱田青行の前川六平が兇準、公妨事件で、三里塚青行の島川九雄、菱田青行の秋山二男、同戸田四男、同Bが兇準事件で逮捕、勾留されて取調べを受け、以後、同年一二月二九日に岩山青行の秋山八男、三里塚青行の梅田三雄、菱田青行の秋山一郎、同小平七郎、同A、同寺川二平、同龍川九平が兇準事件で、翌昭和四七年一月五日には菱田青行の石谷三郎、同栁田八平、同齊田六雄が、同月九日には千代田青行の相田六男、同E、三里塚高校生協議会(三高協)のF、同Dが、同月一四日には菱田青行の林五男、同岩川三男、人民連帯の大平次雄がいずれも兇準事件で、同月一八日には前記秋山二男、戸田四男の両名が今度は公妨事件で、同年二月二日には岩山青行の植田二雄、同長谷三平、同町七平、同實山七雄が、翌二月三日には宇大全共闘の山田一夫、同小平六郎が、同月五日にはML派の市村四郎、同月七日にブンド叛旗派の天川二郎、同月一七日にML派の中下十郎、同月二〇日にブンド叛旗派の深山五夫、翌三月四日にブンド叛旗派の梅川五郎がいずれも兇準事件で、同年六月六日には反帝学評の村中六夫、ブンド叛旗派の岡山二夫、同柳七夫、同岡谷(旧姓沼田)一男、同山村八夫、プロ学同の鈴村四夫、同月二二日に千代田青行の笹野九郎(但し、逮捕は兇準事件のみ。)、岩山青行の麻生春雄、同C、同石田九男、同石田一雄が、同月三〇日にはブンド情況派の岡川三夫がいずれも兇準、公妨事件で逮捕、勾留(但し、秋山二男に対する公妨事件については勾留状不発付。)されて取調べを受け、その後、更に、同年七月五日に前記栁田八平、小平七郎、齊田六雄、島川九雄、秋山八男、龍川九平、Aが公妨、傷害、傷害致死事件で、前川六平、B、戸田四男、林五男が傷害、傷害致死事件で再度逮捕、勾留され、同月一四日には石田十男、相田六男、實山七雄、寺川二平、Eが、同月二八日には梅田三雄、C、長谷三平、植田二雄が、同年八月一日には石田一雄、町七平、石田九男、麻生春雄らがいずれも公妨、傷害、傷害致死事件で再度逮捕、勾留(但し、戸田四男、林五男、Eについては、勾留請求却下、又は勾留状不発付。)されて取調べを受け、この間、分離前の相被告人麻生春雄、共犯者の尾野勇喜雄、同並木幸雄及び被告人の島川九雄、同笹野九郎、同寺川二平、同A、同實山七雄、同秋山八男、同齊田六雄、同龍川九平が本件傷害、傷害致死事件についても自白し、右自白に基いて、右麻生春雄、被告人島川九雄、同寺川二平、同A、同實山七雄、同秋山八男、同齊田六雄、同龍川九平のほか、黙秘していた被告人相田六男、同葵七男、同秋山二男、同石田九男、同石田十男、同石田一雄、同C、同岩川三男、同植田二雄、同梅田三雄、同梅山四雄、同B、同岡山五雄、同E、同林五男、同島山八雄、同杉下十雄、同曽一平、同戸田四男、同長谷三平、同広川四平、同古山五平、同前川六平、同町七平、同栁田八平の合計三二名が傷害、傷害致死事件についても起訴されたというものである。

本件各証拠によれば、被告人ら約六〇〇名以上の青行とこれを支援する諸セクトの者の中のいずれかの者が福島小隊所属の警察官に暴行を加え、柏村信治ら三名を死亡させたほか、公訴事実記載の警察官に傷害を負わせたことは明らかであるが、右被告人らが、右事件についての実行正犯であると特定するに足りる客観的証拠はなく、前記共犯者及び被告人らの自白が本件事件の成否を左右する証拠となっているのが本件の特徴である。

ところで、右共犯者及び被告人らは、公判廷において、いずれも右犯行に直接関与しておらず、また、目撃していない旨否認する供述をしており、被告人ら及び弁護人は、右共犯者、被告人らの捜査段階における自白は、違法な別件逮捕、逮捕、勾留のむしかえしの結果得られたものであるばかりでなく、捜査段階、特に警察段階の取調べにおいて、連日長時間にわたる取調べや、強制、脅迫或は偽計、利益誘導などが行なわれた結果得られたもの或はこれを踏襲するものであって、いずれも任意性、信用性がないとし、更に、被告人杉下十雄、同曽一平については、いわゆるアリバイが存在するとして、兇準、公妨事件を含め、全事件につき被告人両名はいずれも無罪である旨主張している。

そこで、以下、右事件について、まず、証拠上明らかに確定できる事実及び右事件の成否を判断するうえで必要と認められる争点についての事実を認定したうえ、共犯者、被告人らの傷害、傷害致死事件に関する自白について検討を加えることとする。

一  事件発生の状況

証人堀田安夫(四七、四九公)、同伊勢田七良(四八、五〇公)、同笠井久成(四八、五〇公)、同加藤栄治(四〇公)、同若杉賢治(四〇公)、同諸岡恒(四三公)、同岩田正雄(四八公)、同西野谷悦宏(五一、五二公)、同小林昭夫(五一公)、同畠山増男(五一、五三公)、同須藤次男(五三、五四公)、同荒谷(五三・五四公)、同中村耕三(五五、五六公)、同鈴木恒雄(五五、五六公)、同川井田政嗣(五七、五八公)、同山本省悟(五七・五八公)、同川田三郎(六〇、六一公)、同飯塚保信(六〇、六一公)、同小島洋(六二公)、同秋葉恵子(六二公)の各供述、加藤俊英実況(46・9・21付、9・22付)、藤代喜衛実況(46・・9・16付、9・21付)、宇留間行雄実況(47・2・16付)、若杉写真、加藤写真、萩原幸雄検面等によれば、次の各事実を認めることができる。

1 堀田大隊の配置状況等

(一) 千葉県警察本部に応援派遣された神奈川県警察堀田大隊(大隊長堀田安夫警視以下二六一名、三個中隊)は、昭和四六年九月一六日午前三時二〇分過ぎ神奈川県川崎臨港警察署を輸送車、大隊長車、警備資材車等一四両の車両で出発し、途中成田市内で放水車一両を加え、同日午前六時二五分ころ、まず大隊長と第一中隊が東峰十字路に到着したが、第二中隊及び第三中隊(以下、第二中隊を「二中」、第三中隊を「三中」、第一小隊を「一小」等と略称する。)は、途中、車両故障のために到着が遅れ、同日午前六時三五分ないし四〇分ころまで(後記ニッサンジュニアが攻撃を受ける前まで)に相前後して同所に到着したこと

(二) 一中一小(福島誠一小隊長以下三六名、三個分隊)(「福島小隊」ということもある。)は、同日午前六時二五分ころ東峰十字路に到着後、直ちに同十字路北方東側の藪の検索を命じられたことから、同隊員らは、資材車から大楯を下ろしてこれを携えたうえ、大隊付特科隊員約一〇名とともに、同十字路の北方約一二〇メートル(東幹一二八の電柱のやや北)付近から約六、七〇メートル(東幹一三〇の電柱付近まで)の範囲の道路東側の山林、藪の検索を開始し、検索終了後十字路から約一三〇メートル北方の座間次男方前付近路上で待機中、数分を出ない内に被告人らの集団が同所から約二、三〇メートル南方の東側ガサ藪から突出し、福島小隊に攻撃を加えてきたこと

(三) 西野谷悦宏巡査は幌付小型警備車(ニッサンジュニア)を運転し、同日午前六時二五分ころ堀田大隊長車、一中とともに東峰十字路に到着し、特科隊員約一〇名を降ろした後、車両の駐車場所となっていた同十字路の北方約四五〇メートルの旧北林事務所跡に行ったところ、同所で、大型警備車両が車輪を側溝に落として動けない状況になっていたことから、これを引揚げるためのワイヤーロープを取りにニッサンジュニアを運転して十字路に戻り、その後方向転換する場所を求めて徐行しながら同十字路の東方約二〇〇メートルの境原方まで行き、同所でUターン中、被告人らの集団の先発隊の一部の者から攻撃を受けたこと

(四) 車両故障のため到着が遅れた三中の二個小隊のうち、一小(小隊長畠山増男)は、十字路到着後、前記旧北林事務所跡における車両警備及び同所付近での警戒検問の任務につくため、大型警備車で十字路から北方に向ったが、十字路から約五〇メートル進行した地点で、前方東側のガサ藪から被告人らの集団が道路上に突出して来るのを現認したため、直ちに車両から降車して阻止線を張ったこと

などの各事実が認められる。

二  本件犯行当日における被告人らの事件発生に至るまでの主な行動

被告人秋山八男(一〇三公)、同寺川二平(九四公)、同A(九四公)、同石谷三郎(一一三公)、同石田十男(八八公)、同E(一〇八公)、同栁田八平(一一三公)、同奥山五雄(一二一公)、同鈴村四夫(一二二公)、同島山八雄(一二三公)、同岡川三夫、同山田一夫(一三〇公)、同實山七雄(一〇二公)、同前川六平(八五公)、同笹野九郎(九一公)、同岡山二夫(一二九公)、同今田十夫(一二九公)、同岡谷一男(一二九公)、同秋山二男(一三〇公)、同市村四郎(一三一公)、同広川四平(一三一公)をはじめ各被告人の供述、証人岡林茂(七五公)、同石川洋(期日外)、同浅井雄二(期日外)、同池田寛二(七四公)、同尾野勇喜雄(六五公)の各供述、岡林茂の検面(47・1・10付、1・16付、1・20付)、石川洋の検面(47・3・11付、3・21付、3・22付、3・24付、7・8付)、浅井雄治の検面(47・2・11付、2・15付、2・18付、2・21付)、大宮育雄の検面(47・2・11付)、関逸三実況(47・2・25付)、上須賀重治実況(46・12・26付)等によれば、およそ、次の各事実を認めることができる。

1 小屋場台集結の状況等

各青行(但し、被告人秋山二男、同前川六平、同石田十男、同秋山一郎らは、後記県有林で各青行と合流)、三高協とこれを支援する諸セクトは、本件犯行当日の午前二時過ころから、午前四時ころまでの間に、山武郡芝山町香山新田字小屋場台の秋山一郎方付近に集結したが、同所に集った各集団の人数等は、およそ、次のとおりであった。

青行・三高協 白ヘルメット(一部黒ヘル) 約四〇ないし五〇名

ブンド叛旗派 赤ヘル 約五〇名

ブンド情況派 赤ヘル 約三〇名

フロント 緑ヘル 約七〇名

共労党・プロ学同 赤と茶のまだら、黒と茶のまだら赤の各ヘル 約七〇名

宇大全共闘 黒ヘル、赤ヘル 約三〇名

人民連帯 黒ヘル 約七名

日中 黒と茶のまだら、ピンク・黄・緑のまだらの各ヘル 約五〇名

その他の小数諸セクトを合わせ約六〇〇ないし七〇〇名が集結した。

2 小屋場台出発から県有林に至るまでの状況

小屋場台に集結した右約六〇〇ないし七〇〇名の集団は、同日午前四時ころ、青行を先頭に東峰十字路に向けて出発し、途中、横堀公民館付近で小休止した後、更に北上し、同日午前五時三〇分ころから同六時ころまでの間に成田市東峰字御幸畑の県有林に到着した。

この間、叛旗派は、小屋場台で丸棒、火炎びんの配布を受け、共労党・プロ学同は、小屋場台に集結時には既に丸棒をそれぞれ携え、宇大全共闘は、小屋場台で丸棒、竹竿を、青行は、横堀公民館付近で丸棒、竹竿を携えるなど、右集団は、小屋場台から県有林に至る間において、ほとんど全員が丸棒、竹竿、火炎びんを携えるなどして武装した。

そして、残った火炎びんの跡始末のために遅れた尾野勇喜雄、被告人秋山一郎、同石田十男や、集結時刻に遅れた被告人秋山二男、同吉川九夫、同前川六平らも横堀公民館付近で一緒になった後、本件集団のあとを追い、県有林において休憩中の本件集団に追いつき合流した。

3 県有林内での状況

県有林に到着した集団は、同所で持参した弁当等で朝食をとったりして休憩していたところ、偵察員から東峰十字路に警察官が到着し、警備についている旨の報告がなされたことから、同所において被告人秋山八男、同栁田八平ら各青行のリーダーと、日中の広川四平、反帝学評の村中六夫、ML派の市村四郎ら諸セクトのリーダーら約二〇各による代表者会議が開かれ、右会議において、本件集団を先発隊と後発隊の二手に分け、先発隊は小見川県道を横切って北上した後、十字路北方の道路に出、北側から十字路にいる機動隊を攻撃する。後発隊は北上して小見川県道へ出た後同県道を西進し、十字路東側から攻撃する。先発隊は、青行、日中、プロ学同、叛旗派、ML派、宇大全共闘、人民連帯等の約三〇〇名、後発隊はその余のブンド情況派、フロント、労学連、反帝学評等の約四〇〇名とし、後発隊は先発隊より一〇分遅れて出発することなどが決められ、右会議の結果は、各リーダーからそれぞれの隊員に伝えられたこと

4 県有林出発後の情況

青行、日中、叛旗派等の先発隊は、同日午前六時四〇分ころ県有林を出発し、同所から小見川県道に通ずるいわゆる「農道」を北上し、県道手前で水溜りを避けて右に曲がり、同市東峰九一番地の梅沢方の庭を抜けて県道を横切り、更に北上したこと、この間、同日午前六時四五分ころ、青行の部隊が小見川県道手前の水溜り付近(同市天神峯一五四番地境原方の向い側)に至った際、堀田大隊所属の西野谷悦宏巡査運転の小型幌付警察車両(ニッサンジュニア)が、右県道上を東峰十字路方向から来て、方向転換のため、右境原方庭先にバックで入ろうとしているのを目撃し、被告人寺川二平、同戸田四男、同龍川九平ら青行の一部約一〇名と黒ヘル数名の者が、右水溜りを突切ってニッサンジュニアに襲いかかり、火炎びんを投げつけ、棒や竹竿で車体を叩いたり、ウインドガラスを割るなどの攻撃を加え、また、幌や荷台を燃えあがらせるなどした。右ニッサンジュニアの攻撃に加わった者及びこれを立ち止って見ていた者以外のその余の先発隊員は、前記梅沢方付近から県道を横切って更に北上し、同市天神峯一四六番地の大竹弘志方手前を左折して畑のあぜ道を西進し、高さ約一・五メートル、幅約一・六メートルの土手、幅約一〇メートルの松林、幅約六五・四メートルの竹藪、ふじ蔓等の藪(以下、松林、竹藪を含めて「ガサ藪」という。)を通り抜け、同日午前六時五〇分過ころ、東峰十字路の北方約一三〇メートルの地点にある座間方から二、三〇メートル十字路寄りの道路上に次々と突出し、被告人らの集団のうち、先頭部分の数十名の者が、座間方前付近にいた福島小隊に対し多数の石塊、火炎びんを投げつけ、或は丸棒、竹竿で突く、殴るなどの激しい攻撃を加え、その余の叛旗、ML派等の後半部分は、突出地点から南下し、十字路北側で阻止線を張っていた三中一小(畠山小隊)に対し、石塊、火炎びんを投げつけ、或は棒、竹竿で突く、殴るなどの攻撃を加えたこと

の各事実が認められる。

三  そこで、以下、本件を判断するうえで必要と認められる各事項について順次検討する。

1 堀田大隊一中の十字路到着時間

堀田大隊の大隊長付及び一中隊員の中には、堀田大隊一中の東峰十字路到着時間を午前六時三〇分ころとする者も多い(須藤次男、阿部貫一、荒谷、深沢正光、西野谷悦宏、高橋祐一、中村耕三、鈴木恒雄、高嶋光夫、川井田政嗣等)が、同人らの供述は曖昧で、正確なものとは言えないうえ、堀田安夫、大隊長付伝令で時間については比較的に正確であったと思われる伊勢田七良、一中隊長笠井久成、一中二小隊長岸田正雄、一小の伝令飯塚保信らの供述を総合すると、堀田大隊長、大隊長付、一中及び特科支隊は、現地配備の予定時刻である午前六時三〇分の五分前、午前六時二五分ころに東峰十字路に到着したものと認められる。

2 ニッサンジュニアの攻撃時間、状況等について

ニッサンジュニアの運転手西野谷悦宏の供述(五一、五二公)によると、同人は、当日、ニッサンジュニアを運転して午前六時三〇分を少し過ぎたころ、堀田大隊長車、小型警備車に続いて十字路に到着し、同所で特科支隊の隊員一〇名を降ろした後、同所に相次いで到着していた大隊長車、小型警備車各一台、ニッサンジュニア、大型警備車二台の順序で、車両の駐車場所になっていた旧北林事務所跡に向ったこと、ところが、右旧北林事務所跡において、大型警備車が車輪を溝に落として動けなくなったことから、これを引揚げるための索引用ワイヤーロープを取りにニッサンジュニアを運転して資材車のいる十字路に戻り、その後、小見川県道を方向転換する場所を探しながら前記境原方前まで至り、同人方の庭先に右車両をバックで入れたこと、そのころは、十字路到着後一五分ないし二〇分位たっていたこと、右車両をバックで入れ、前を見たところ、前方の空地様のところに約一〇〇名の白ヘル、黒ヘルの集団がおり、その中の白ヘル約一〇名位と黒ヘル一、二名の者がニッサンジュニアに襲いかかり、石や火炎びんを投げつけ、ボンネット上で火炎びんが燃え上ったり、幌や荷台が燃えるに至ったこと、更に、その集団が鉄パイプや竹竿等で車体を叩き、フロントガラスを叩き割り、運転席にいた西野谷めがけて鉄パイプ、竹竿で突くなどしてきたため、危険を感じ、車両を離れて境原方裏の芋畑へ逃げたこと、三、四名の者が西野谷を追いかけて来たが、四〇メートル位行ったところで追いかけてくる者がいなくなったのでそこで二、三〇秒立ち止った後、追跡して来た者が戻ったかどうかを確めながら車両に戻り、荷台にあがって燃えている幌や荷台の火を毛布で叩いて消したり、荷台の荷物を隠したりしていたところ、境原方にいた男から「水がそこにある。」と言われ、境原入口左側門柱のところにあった水道からバケツで五、六杯水をかけて火を消したうえ、直ちに十字路に引き返したこと、そして十字路東側に停まっていた小型警備車とパトロールカーの間にニッサンジュニアを停めたが、十字路に戻ったと同時位か少し前か判らんが、北の方から十字路に向けて攻撃が始まっており、西野谷の車の方にも石が飛んで来ていた、境原方から十字路に戻るまで一五分ないし二〇分位であったというのである。

右西野谷の供述と、関逸三実況(47・2・25付)によれば県有林から梅沢方までは三五七メートルあり徒歩で四分二二秒の距離があること、また、堀田大隊長の伝令で時間等については比較的に正確であると認められる伊勢田七良の供述(四八、五〇公)によると、同人が十字路にいたとき、十字路の東の方に停まっていた車両の後ろの方から白い煙がパッと上がるのを目撃した、ゲリラ出現ということで大隊長命で現状を各中隊、小隊、連隊本部に通信の人間に指示して連絡させたが、それは午前六時五〇分ころであったというものであって、これらの供述等を総合すると、西野谷の運転するニッサンジュニアが境原方で攻撃を受け始めたのは、午前六時四五分過で、むしろ、それよりも少し遅く午前六時五〇分に近いころであったと認められることと、更に、西野谷がバケツで水をかけて消火した後、直ちに十字路に引き返した直後に、十字路北方から十字路に対する攻撃が始まったということと、後記認定のとおり、十字路北方から十字路北側で警備していた三中一小に対する攻撃が午前六時五五分ころから始まり、午前七時ころには十字路の直近に及んでいたと認められることなどを総合すると、西野谷がバケツに水を汲んで消火作業をしていたのは午前七時に近い時間であったと認められる。

3 県有林からガサ藪に至るまでの距離及び状況等

関逸三実況(47・2・25付)によれば、昭和四七年二月二五日当時

(イ) 県有林から農道を北上して梅沢方まで約三五七メートル

(ロ) 梅沢方から大竹方前に通ずる小路入口まで約五八メートル

(ハ) 右小路入口(小見川県道)から大竹方前まで約一三三メートル

(ニ) 大竹方前からガサ藪手前の土手まで約一四八メートル

(ホ) 右土手から直進(西進)してガサ藪突出まで約八七メートル

であって、この間の所要時間は、通常歩行で(イ)四分二二秒、(ロ)四〇秒、(ハ)一分三五秒、(ニ)一分四〇秒、(ホ)二分三五秒であったことが認められる。

そして、野村七三実況(47・3・30付)によると、大竹方の牛小屋前は、幅一・二メートルの農道があるが、茶柵木付近より山林までは幅五〇センチメートル位の農道であり、大竹方畑と山林の境には高さ約二メートル位の土手があり、山林は、樹令二〇年位の松林になっており、雑草、笹竹などが密生していた。そして、雑草、笹竹などが倒れて踏みかためられた形跡が幅三、四〇センチメートルであった。そして、右の様な踏みかためられた跡は、大竹方脇の農道を直進し、そのまま林に突き当った場所と、北に九・八メートル上った場所及び逆に南に三五・八メートル南下した場所の三か所にあったこと、そして、踏みかためられた形跡以外の山林は、雑木、竹林、雑草などが密生し、歩行が困難であったこと等が認められること、更に、林文男実況(46・9・21付)によると、ガサ藪(雑草地、竹藪、竹林、雑木林)は、いずれも高さ一メートル位のススキ、つる草、笹竹などが生い茂り藪状となっていること、また、前記関逸三実況によると、高さ約一・五メートル、幅約一・六メートルの土手を越えると樹令一五年程度の松林があり、この松林は幅約一〇メートルにして、更に西方に雑木まじりの竹藪が接しており、この竹藪の深さは約二メートルで、バラ、フジ、つる草が連なっているも、転々(点々)と歩行の形跡が認められ、所々に細い通路らしき細道を形成した部分が認められること、また、宇留間行雄実況(47・7・3付)によると、山林(ガサ藪)は樹令三〇年ぐらいの松林になっており、雑草、笹竹などが密生しており、歩行が困難な状態であった、というものであって、これらの各証拠を総合すると、大竹方からガサ藪手前まではほぼ一列となって進行せざるを得ないような幅約五〇センチメートルの農道であったうえ、ガサ藪は、雑木、竹林、笹竹が密生していて歩行が困難な状況にあり、他の者が通って踏みかためた跡を通って行ったと認められること、しかも、右ガサ藪を通り抜けた通路は一か所でなく、大竹方手前(南側)農道を西進して突き当った地点の北方約九・八メートルのところから、逆に南へ約三五・八メートル南下したところまで約四五・六メートルの広い範囲からも次々と十字路北方の路上に突出したものと認められる。

4 被告人らの集団のガサ藪突出時刻

前記認定のとおり、福島小隊員らは、十字路に到着後、資材車から大楯を下ろしてこれを携えたうえ、十字路北方約一三〇メートルの地点に在った座間方の向い側のガサ藪の検索をした後、座間方前付近路上で待機中、ガサ藪から突出して来た被告人らの集団から攻撃を受けたものであるが、攻撃を受けた時間について、須藤次男は「検索は一〇分か一五分。五分位して東側のヤブの中から人が出て来た。」、阿部貫一は「検索は一五分前後、そのあとものの五分もたたないうちに、喚声あげながら竹ヤブの中から大勢の人が出て来た。」「検索場所へ行くまでは二、三分、最大で五分位。」、荒谷は「検索は約二〇分位、待機してしばらく、タバコを一本吸う時間だから五、六分してヤブから集団が出て来た。」「到着してから検索の場所まで一〇分か一五分で、それから検索に二〇分位。」、高橋祐一は「検索は一〇分から一五分位。」「検索終わってから五、六人出て来るまで五分位と思う。」、中村耕三は「検索は一〇分、長くて二〇分位のもの。しばらく休んでいると五、六人がヤブの中から出て来た。」、鈴木恒雄は「検索は大体一〇分か一五分。」、芝純一は「検索一〇分位。」、高嶋光夫は「検索は一五分位、待機して間もなくヤブの中から二人か三人出て来た。」「待機して五分かそこら。」、川井田正嗣は「一〇分か一五分検索。」、芦名和夫は「約一〇分位検索した。」、山本省悟は「一〇分か一五分検索、そのあと待機して数分位して二、三人のヘルの男出て来た。」、佐賀司は「検索して二〇分位、休憩して七、八分だと記憶しているが、ガサ藪の中から出て来た。」、武田安隆は「検索は一五、六分。二〇分前後ではないか、そのあと小休止、ほんの数分して人が出て来た。」等というものであって確実なものはないが、これらの各供述や、後記認定のような攻撃状況、それに秋葉恵子の供述(六二公)、即ち、同女はいつも東峰十字路を午前七時ころ出る千葉交通のバスで高校へ通っている者で、本件当日もバスの時間ぎりぎりで十字路に向かい、旧北林事務所を過ぎたあたりに来た際、一〇人位の警察官が十字路の方から走って来、そのあとを同じ位の数の学生が追って来るのを目撃している旨供述しているところ、同女が目撃した関根方入口付近は、十字路から約四〇〇メートルあり、通常の歩行で五分前後を要する距離であることなどにかんがみると、同女が前記状況を目撃したのは午前六時五五分前後であったと認められることなどを総合すると、被告人らの集団のガサ藪突出時刻、そして福島小隊に対する攻撃開始時刻は午前六時五〇分過ぎであったと認められる。

5 最初にガサ藪を突出した集団

ガサ藪を最初に突出して来た集団のヘルメットの色について、後藤次男は「パラバラと出て来た。ヘルの色は覚えていない。」、阿部貫一は「竹ヤブの中から大勢の人が出て来た。およそ二、三〇〇人で白ヘルが印象に残っている。」「初め目についたのは一〇名程度で、初めに出て来たのは白ヘルだと思う。大楯突いて来たのも白ヘルでしたのでそういう記憶がある。」、荒谷は「ヤブから集団出て来た。白っぽいヘルメットであった。白っぽいということだけしか記憶がない。」「白っぽいというのは、白だけではない、という意味である。」、川田三郎は「ヘルは白だということは覚えている。」、深沢正光は「初め二、三人ヤブから出て来た。確か白ヘルだったと思う。」「白ヘル以外覚えていない。」、高橋祐一は「白ヘルメット姿の者だと思うが五、六人出て来た。最初に出て来た白ヘルが印象的であった。」旨供述し、会社員で出勤途中旧北林事務所跡付近の状況を目撃した塚本士朗は、「十字路の方から逃走して来た一〇名位の機動隊員を竹槍等を持った一〇数名の集団が追いかけて来た。集団の多くは白ヘルをかぶっていたが、黒ヘルの者も若干いた。」旨供述(六四公)している一方、中村耕三は「五、六人がヤブの中から出て来た。はっきりしないが、記憶では黒だと思う。五、六人に続いて二、三〇人出て来た。その後人数増えて二、三〇〇人になった。ヘルの色はっきり覚えてないが、白、黒そういったようなヘルであった。」「初めに出て来たのは五、六人。ヘルは黒だったと思う。」、鈴木恒雄は「喚声とともに三、四人出て来た。茶色のヘル印象的であった。あとの二、三人のヘルの色は思い出せない。」「茶色のヘルは強烈に印象に残っている。機動隊にいるとき赤、白は良く見ていたので、茶色というのは特に印象にあった。」、高嶋光夫は「阻止線張る間、ちょっと前向いたとき、前に五〇人位いた。ヘルの色は赤とか黒とか白のような気がする。」、川井田政嗣は「初め二、三〇人、色を全部あてることはできないが、赤ヘルとか黒ヘルがあった。」、山本省吾は「二、三人のヘルの男出て来た。黒っぽい感じというのが印象。」というもので、これらの各供述を総合すると、ガサ藪を最初に突出した集団の中に白ヘルの青行・三高協の者が含まれていたことは認められるが、それ以上に、検察官主張のように青行・三高協の集団が最初に突出したとか、弁護人主張のように道案内役の梅沢が最初に突出し、続いて日中の集団が突出したものとも断定できないといわざるをえない。

6 福島小隊に対する攻撃状況

福島小隊が攻撃を受けた後、隊形を崩した状況については、須藤次男は「三列の警備隊形をとったところ、投石や近付いて来て丸太で殴りつけて来た。丸太を持った者は数え切れず、道路一杯になっており徐々に後退した。途中で「前へ」という声を聞き、多少前へ出たがまた押され、後ろ向きに後退した。」、阿部貫一は「阻止線張ったが、少しずつ後退した。「喚声前」で一旦三メートル位前に出たが直ぐ押し返され、大楯を背にして背走した。」旨供述し、他の福島小隊員も同様の供述をしている。そして、阻止線を張ってから背走するまでの時間について、深沢正光は五分位、芝純一は数分と供述していることに加えて、前記認定のとおり、秋葉恵子が、午前六時五五分前後ころ、関根方入口付近で一〇人位の警察官が十字路の方から走って来、そのあとを同じ位の数の学生が追って来るのを目撃していること、更に、同女の供述と萩原幸雄検面(46・12・11付)によると、秋葉恵子と萩原幸雄の両名は、旧北林事務所前の小道で学生達が警察官を数回叩いて通り過ぎて行くのを目撃した後、座間方と国井方入口の中間まで行っていること、この間、電柱の側に倒れている警察官ほか一名の警察官が倒れているのを目撃していること、しかも、その周囲には誰も居らず、学生達は座間方の少し北に居たというものであって、これらの事実を総合すると、福島小隊は攻撃を受けてから僅か数分で背走しはじめ、しかも、座間方のやや北から旧北林事務所跡までの間においては、同女らが座間方付近に至るまでの間に、福島小隊員に対する攻撃は終息しており、被告人らの集団の福島小隊員に対する攻撃は、極めて短時間であったと認められる。

7 福島小隊員に対する攻撃状況について

福島小隊員らの供述は、およそ次のとおりである。

(イ) 須藤次男(五三、五四公)

須藤は第一分隊の最後尾について、ガサ藪の中からパラパラと集団の出て来るのを目撃し、直ちに阻止線を張ったが、集団は投石したり、近づいて来て丸太で殴りつけたりして来た。丸太を持った者は数え切れない程で、道路一杯になっていた。小隊員は徐々に後退し、途中多少前に出たが、また押された。後ろ向きに後退中、何かに足をとられて転んだ。そして溝の中へ転んだところ、わっと殴りかかられた。東側に民家跡のある向い側のところである。楯をもって倒れ、その上から殴られた。途中から記憶がない。気がついたときは、同僚に助けられていた。

(ロ) 阿部貫一(五三、五四公)

喚声をあげながら二、三〇人が出て来た。青竹やこん棒で殴りかかり、石や火炎びんも飛んで来た。阻止線を張っていたが徐々に後退し、「喚声前」で一旦三メートル位前に出たがすぐ押し返されて隊形が崩れ、大楯を背にして三差路まで走って後退した。そこで、隊員二〇人位が一旦集結したが、二〇〇人位の集団が来たので、更に右の方に後退した。

(ハ) 荒谷(五三、五四公)

阻止線張ったが、棒で叩いたり、火炎びんを投げて来た。じりじりと後退し、一旦「喚声前」で少し前に出たが、結局、後退した。後退する際、何かにつまづいたのかよろけ、その瞬間殴られてうつぶせに道端に倒れた。民家跡のある前の東側の道端である。そこで、更に、五、六人に角棒のようなもので殴られた。竹のようなものではない。五、六回殴られた。しばらくして、反対派の者が来て、また突いて来たので、ありったけの声で「助けてくれ。」といった。十字路の方から来た白ヘルの男に「動けるか。」と言われたので「動ける。」と言ったところ、「あれを助けて逃げろ。」と言われた。そこで、国井方入口前で倒れていた男を抱き起こし、頬を叩いたりしたが駄目だった。頭から血が出ていたのでタオルで包帯してやった。何とか一緒に退避しようとしたが動かせず、十字路の方から来た男に「手伝ってくれ。」と頼んだが、「自分だけでも逃げろ。」というので逃げた。助けようとした男は、後で柏村分隊長と判った。「あれを助けて逃げろ。」と指示されたとき、北側に隊員が一人倒れているのを見た。丸太の上にのしかかるように倒れていた。後で、その隊員は森井巡査と判った。一人で直ぐ左側の農道に入り、後で判った国井方に助けを求めた。

(ニ) 深沢正光(五四、五五公)

阻止線張ったが、火炎びん、投石、角材等で攻撃された。五分位持ちこたえたが北の方へ後退し、三差路を東の方へ逃げた。舗装が切れるあたりで一人の隊員が倒れ攻撃されていた。そのときの集団は一〇〇人位で、隊員は二〇人位であった。農道を通り、十字路に通ずる道に逃げた。

(ホ) 高橋祐一(五五、五六公)

ガサ藪の中から五、六人出て来た。竹や丸太のようなものを持っていた。すぐ阻止線張った。初めは五、六人であったが段々数が増えて来た。初めは何とか持ちこたえていたが、人数が増えるにつれて段々押され、最後には反撃する力もなく押されっぱなしで逃げるようになり、三差路を右折し、農道から小見川県道に出、石井方庭に逃げた。

(ヘ) 中村耕三(五五、五六公)

五、六人藪の中から出て来て石や火炎びん投げて来た。すぐ隊列組んだ。五、六人に続いて二、三〇人出て来、その後人数増えて二、三〇〇人になった。初め阻止できていたが、押されて後退し、楯を背中にかついで後退し、三差路を右へ逃げた、五人位に追いかけられ、また、畑の中を横切って来た集団一五人位の者を加えた二〇人位に追いかけられた。阿部分隊長は中村の後ろから逃げて来ていた。振り返ったら阿部分隊長が角材のようなもので殴られていた。

(ト) 鈴木恒雄(五五、五六公)

喚声とともに丸太を持った三、四人が出て来た。すぐ阻止線張ったが、そのあと続々と藪から出て来て、投石や丸太で殴って来た。火炎びんも相当投げて来た。一時、三、四歩前進したが、そのあとジリジリと後退し、遂に逃げた。大楯を背にして背走したが、途中、逃げて速度があがっているときに石につまずいて転倒し、丸太で殴られた。

(チ) 芝純一(五五、五六公)

五、六人が藪の中から飛び出して来、それから次々と出て来あったという間に道路一杯になった。阻止線張ったが、石や火炎びんを投げ、竹や丸太で殴りかかって来た。数分で後退した。一度、「喚声前」で四、五メートル前に出たことあるが、結局北の方へ逃げた。三差路を右折し、今井方に助けを求めた。

(リ) 山本省悟(五七、五八公)

黒っぽい感じのヘルの二、三人が出て来、そのあと次々と出て来た。あわてて阻止線張った。初め投石や近づいて来て棒で叩いたりして来た。集団はその後道路一杯になった。山本らは徐々に後退し、遂に背走した。楯を頭の方に斜めにかぶり北の方へ逃げた。途中で隊員が倒れており、それにつまづいて倒れた。すぐに起きあがって北の方に向ったが、今度は足がもつれて倒れ、そこで集団から暴行を受けた。三人位に殴られた。

(ヌ) 芦名和夫(五七、五八公)

藪の中から一人の白ヘルの男が出て来、続いて多勢出て来た。走り出すような格好で出て来た。そして小隊の方に向って投石して来た。最初の白ヘルも投石していた。続いて出て来た者も投石したり、棒で攻撃して来た。阻止線張り、一旦後退してまた前進して押し返したが、激しい攻撃で、芦名は丸太のようなものでヘルメットの上から頭を殴られ、ライナーが割れた。そのあと後退した。後退しているとき福島小隊長と第三分隊長の川井田がやられた。囲まれた。周りに人が寄りたかったので見えなくなった。川井田分隊長は十字路に向って右側の位置で、集団で角材のようなもので顎の付近殴られ道路の右側の方に倒れ込んだ。助けに行こうとしたが攻撃が激しくて助けに行けなかった。大楯を背負い走るようにして後退し、北方の三差路を右折、アスファルトの切れるところから山林に入り、県道小見川線へ出た。二〇人位が一緒に逃げ、後で判った石井という家へ助けを求めた。

(ル) 川井田政嗣(五七、五八公)

集団が山から出て来て部隊の方に火炎びん飛んで来たので、火炎びんを持っていると判った。小隊長の命令で阻止線張った。火炎びん投げて来たり、棒で叩いたりして来た。一旦相手を押し返したが、激しい攻撃でとうとう転進。北側に向って走って行く形で一〇〇メートル以上走って逃げた。逃げる途中前のめりに倒れた。畑の中で倒れたと思う。そこで背中、ヘルメットを叩かれた。道路上で倒れたのかも知れないが、叩かれたのは畑の中という記憶である。

(オ) 佐賀司(五七、五八公)

大楯で阻止線張った。丸太で殴りかかって来た。二、三〇人出て来てからは火炎びんも飛んで来た。「喚声前」という声で四、五メートル前進したが攻撃激しくてずんずん後退。大楯を後ろにして振り向いたとき、後頭部を丸太で殴られた。三回殴られて西側の溝の中に倒れた。うつぶせに倒れた。命が危いと思って這って行って葺かなにかが生い茂っているところへ行って身を伏せていた。

というものであって、これらの各供述を総合すると、福島小隊長は、集団がガサ藪から突出するのを見て阻止線を張ったが、投石、火炎びん攻撃、丸太で叩かれるなどして徐々に後退し、「喚声前」の号令で、一旦四、五メートル押し返したが激しい攻撃を受けて忽ち後退し、阻止線を張ってから僅か五分ないし数分で隊形が崩れ、大楯を背にして北方に背走するに至ったこと、そして、その背走途中、殴打されて転倒したり、何かにつまずいて転倒したところを殴打されたと認められることや、前掲秋葉恵子及び萩原幸雄の供述内容とを総合すると、北方路上で傷害を受けた警察官が衝突後受傷するまでの時間は極めて短かく、また、その他の警察官は、隊列が崩れて背走し始めてからは、一気に走って逃げたと認められる。

8 柏村信治の死因、創傷の部位、程度等について

鑑定人医学博士伊藤順通、同庄司宗介共同作成の柏村信治についての鑑定書及び伊藤順通の供述(四一、四四公)によると、柏村の死因は、同人の後頭部において、左後方から右前方に向って棍棒或は角材のような鈍体の尖端による強力な打撲によって惹起された頭蓋骨骨折、縫合離開を伴った脳挫傷兼頭蓋内出血であること、しかも、致命傷となった右創傷は、後頭部及び脳の損傷の部位、程度、状況から見て、頭が自由に動き得る静止状態、例えば、立位或は座位の状態で強力な打撃が加えられたことによって生じた可能性が強く、頭が固定された状態、例えば、倒れた状態では生じないとされるものであること、そして、柏村の頭部には前記致命傷となった傷を含め合計四個の擦過打撲傷、挫傷が、顔面に一個の挫創、背面に二個の擦過打撲傷と一個の表皮剥脱が、右上腕上部外側及び左上腕下部外側に各一個の擦過打撲傷が、右肩峰部に一個の擦過打撲傷が、右前腕伸側上部に一個の擦過打撲傷が、右上腕上部外側、右尺骨骨頭部、右前腕伸側上部尺骨側、左前腕伸側上部橈骨側及び右前腕伸側下部にそれぞれ一個の表皮剥脱が認められるものの、柏村の胸部、腹部、両下肢には、全く損傷異常は認められなかったものである。

9 十字路北方から十字路北側で阻止線を張っていた堀田大隊第三中隊第一小隊(畠山小隊)に対する攻撃時間等について

第三中隊第一小隊長畠山増男の供述(五一、五三公)によると、「三中一小は、午前六時三〇分過に十字路に到着した後、北林事務所での車両警備を命じられたため、幌付大型輸送車で十字路から北方に向ったが、約五〇メートル位行ったところで、前方約一〇〇メートル位先の右の林の中から集団が出て来たので隊員を下車させ阻止線を張らせた。初め三〇人位が石や火炎びんを投げるなどの攻撃を加えて来、その後方から一〇〇人位の集団が攻撃して来たため二、三分しか持ちこたえられず、楯を前面にして徐々に後退し、十字路の北側一〇メートル位まで後退したが、ここでも持ちこたえられず、十字路西側で再び阻止線を張ったが、火炎びん攻撃等により数分で西側に後退背走した。三中一小が十字路西側で阻止線張ったとき、放水車は十字路の東側にいた。」というのであり、また、第三中隊長小林昭夫の供述(五一、五二公)によると、「十字路から四、五〇メートルのところに畠山小隊に阻止線を張らせた。数回押し返したが結局後退し、一旦、十字路西出口でも阻止線張らせたがこれも後退した。五、六分で崩された。」というのである。

そして、加藤写真、若杉写真、加藤栄治(四〇公)、若杉賢治(四〇公)及び放水車の小島洋(六二公)の各供述によると、午前七時ころには、既に、集団の先頭部分が十字路の直近まで北側から接近して来ており、しかも、十字路北側に三中一小の姿はなく、十字路西側に後退していたと認められること、更に、午前七時五分ころ、小島洋が放水車から下車しようとしている姿が写っている写真があるが、これについて、同人は、放水車の水がなくなり退避しようとしたところ、十字路内に機動隊員がいて動けないので、自分が下車し、そばにいた機動隊員をどかせてから放水車を西進させた。運転手の桜井が警笛ならしたら、十字路のところへ出て来ていた赤ヘル、白ヘルの集団が若干退いた格好になったので、パッと放水車が突切って行った、というのである。

以上のような畠山増男、小林昭夫、若杉賢治、加藤栄治及び小島洋の各供述並びに加藤写真、若杉写真を総合すれば、十字路北方から十字路北側で阻止線を張っていた三中一小畠山小隊に対する攻撃は、午前七時五分前ないしは二、三分前から始まり、午前七時ころには畠山小隊は十字路西側出口付近に後退し、集団の先頭部は十字路の直近に至っていたこと、そして、午前七時五分ころには、既に、放水車の放水は終わっており、その後間もなく放水車も西方に退避し、十字路周辺の攻撃が終了したものと認められる。

(共犯者、被告人の供述調書の信用性について)

前記認定事実を前提として共犯者、被告人らの各供述調書の信用性を判断するに、各供述者のすべてに亘って、著しい供述の変遷や、客観的事実に反する供述、時間的、距離的に目撃することが不可能であったと思われる事象についての供述が認められるばかりでなく、供述内容自体、不合理、不自然な点や、検察官においてすら採用していない多数の者の氏名を挙示するなど、虚偽自白、過剰自白と思われる部分もあるなど、その供述内容には多くの疑問点が存し、その信用性には疑問を抱かざるを得ない。以下、順次説明する。

1 共犯者並木幸雄の検面の信用性について

共犯者並木幸雄は、昭和四七年一月一四日兇準事件で逮捕、勾留されたが、勾留期間満了とともに処分保留のまま釈放され、更に、同年七月二八日今度は公妨、傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留され、同年八月八日処分保留のまま釈放されたものであるが、二回目の逮捕、勾留の期間中、昭和四七年八月一日付、同月二日付(二通)、同月三日付(二通)、同月四日付(二通)、同月五日付(二通)、同月六日付、同月七日付及び同月八日付の合計一二通もの検面が作成されている。

ところで、並木は、最初の八月一日付検面において「私は前回兇器準備集合罪で捕まりましたが、何しろ生まれて初めてのことでこわいし、みんなから完黙して来いといわれたため、何が何だか判らないまま最後まで完黙してしまいました。しかし、また捕まってしまい、検事さんから完黙していたのではしかたがないといわれ、私も、この際知っていることはすべて話し、今度こそはっきりさせてもらい、けりをつけようという気になりました。」と供述し、以後、十字路北方で目撃した状況、自己が関与した事前、事後における謀議の状況等について詳細に供述するに至っているものである。これに対し、同人は、当公判廷において「東峰十字路へは行ってない。」、「東峰十字路へ最初行かないといったけれども信じてもらえないので、これはもう行ったといわなければ仕様がないんだっぺと思って適当にまあ言ったわけです。」(七八公)と述べ、当日の行動について、「午前六時半ごろ起きて、自分の家の庭でハヤシこと下野英俊と会って立話をし、その後中谷津青年館に行き、プロ学同のトダこと平井知之と車でフロントの団結小屋の方へ行った。そこにはヨコタこと藤谷文雄がいて、無線機で部隊と何か連絡をとっていた。そこに暫らくいて、午前一〇時過ぎころトダと二人で丹波山に行き、その後は部隊と行動を共にした。」旨供述(七六、七七公)しているものである。

右のような並木のアリバイとも言える当公判廷における供述については、これに沿う下野英俊(八三公)、平井知之(八二公)及び藤谷文雄(八三公)の当公判廷における各供述があるが、平井、藤谷の「本件当日、並木とフロント団結小屋のこたつにあたってテレビを見ていた。」旨の供述は、末吉健典作成の捜索差押調書(四六・九・一八付)、林昭作の写報(四六・九・二〇付)及び杉崎巽之の写報(同日付)によると、本件犯行の二日後である九月一八日にフロント団結小屋の捜索が行われた際、右小屋にはテレビやこたつが存在していなかったことが認められ、たとえ、本件事件直後、各セクトにおいて、捜索に備えて、団結小屋内の証拠品、備品等を処分したことがあったとしても、テレビやこたつまで処分する合理的な理由がないことなどに照らすと、直ちに信用できないものがあること、また、藤谷は、「当日午前七時ころ、並木とともにフロントの団結小屋にいた。」旨供述し、同人が右小屋にいた理由について「他のセクトとの連絡をとるためであった。」旨供述しながら、当日の参加セクトについては「良く知らなかった。」旨供述したり、その後、並木が捜査官に対し十字路北方における福島小隊に対する攻撃状況を供述したことを聞いているというのであるから、若し、同人が並木とともに団結小屋に居たのであれば、その後、並木と出会った際に、当然その点を問いただしてしかるべきであるのに、「確かめるなどはしなかった。」旨供述し、不合理、不自然な点があること、また、下野英俊は、当時、並木方の敷地内に居住していた活動家であるが、同人の供述は、「当日行動には参加せず、自分の結婚話のため札幌から来る両親を待っていたところ、午前六時ころ、並木と会った。」というものであるところ、熾烈な闘争となり、本件周辺が騒然となることが予想されていた本件当日に、自分の結婚話のためとはいえ、わざわざ札幌から両親を呼び寄せること自体不自然であること、更に、並木自身、右のようなアリバイが存在したのであれば、捜査段階において、当然、そのことを述べている筈であると思われるのに、その形跡が全く窺われないことなどに徴すると、並木についての前記アリバイに関する供述は、にわかに措信できないといわざるを得ない。

しかしながら、他方、並木の検面についても、その供述内容自体に疑問があり、その信用性を認めることは困難である。

並木の最終的な検面供述によれば、同人の当日の行動は、概ね、次のとおりであったというものである。即ち、同人は、「午前五時過ぎに自宅を出て、バイクで小屋場台に向う途中、中谷津青年館の手前で車に乗ったプロ学同のレポ役であるイワキこと宮越隆夫他一名と会い、その車に乗った。そして、車の中で宮越から「青行の者からお前と宮越とでレポをやってくれと頼まれた。」といわれた。その車で五辻―新堀牧場―小見川県道―石田十男方前というコースで東峰に向かった。石田十男方で車を降り、十字路に向かったが、十字路に機動隊がいたので、十字路手前の堀越方脇から北へ入り、ガサ藪を抜け十字路の北方へ出た。宮越とは境原方付近ではぐれた。十字路北方で青行らが機動隊員に対して暴行しているところを見て歩き、その後十字路の方に引返し、十字路の東南角に停めてあった車で宮越らと南に向かい、フロントの団結小屋へ行った。そこには無線機がおいてあり、しだれ梅の横田が部隊と連絡をとっており、プロ学同の戸田もいた。その後、無線で部隊が丹波山へ移動、集結したことを聞き、戸田と二人で丹波山へ行って部隊と合流し、中谷津共同墓地、鶏舎裏の山林と移動し、暗くなってから戸田と二人で中谷津青年館へ行き、そこから一人で自宅へ帰った。」というのである。

ところで、中谷津青年館から五辻(本五辻)を経て石田十男方までの車での所要時間は、当裁判所の検証の結果によると六分四三秒であるうえ、前記認定のとおり、堀田大隊の一中、三中が十字路での配置についたのが午前六時四〇分過ぎであったことなどに照らすと、並木が午前五時過ぎに自宅を出て、同人の供述するような方法で十字路に向かった場合、十字路で機動隊を見ることは不可能であって、時間的にも状況的にも到底あり得ない状況を内容とする供述であるといわざるを得ない。検察官は、この点について、「並木は、自宅を出た時刻を午前五時過ぎと供述するについて特段の根拠を示している訳ではないから、そもそも、出発の時刻について記憶違いをしており、並木が自宅を出発した時刻は、それよりも遅い時刻であったとも考えられる。」と主張する。確かに、証人下野英俊は、「自分の結婚話のために札幌から来る両親を待っていたところ、当日午前六時ころ庭先で並木と会った。」(八三公)旨供述し、並木の自宅出発時間についての検面供述には記憶違いがあって、もっと遅い時刻に出発したのではないかと思われる面もあるが、同人の検面は「九月一六日の朝、多少風邪ぎみのため寝過ごしてしまい、仕方なく午前五時を少しまわったころ、あわててバイクに乗り、小屋場台に向う途中、中谷津公民館の三〇メートル位手前で車のライトに照らされ、オーッと声をかけられ、とまってみると、プロ学同のイワキともう一人の名前の知らない学生がいた。」(四七・八・二付、八・五付)というものであって、九月一六日という時期や、車がライトをつけている程の状況であったということから考えると、同人の自宅出発時間についての供述には、単なる記憶違いとして片付けられないものがあり、それだけに、また、同人の右のような時刻を前提としての供述には、大きな疑問があるといわざるを得ない。

そればかりでなく、八月二日付検面では「石田十男方の前で車を降り、機動隊と衝突したことを聞き、私は、おおやったかと思い、申し訳ないのですが、ヤジ馬的な根性で、この赤線のように走ってイワキと東峰十字路に向かいました。十字路の手前で寺川二平が確か手錠のような物を持っていたのを見ましたが、私はそのまま走って十字路から右に折れて北へ進むうち、学生や青行の者達が倒れている機動隊員を殴っているのを見た。」。

八月三日付検面では、八月二日付の経路についての供述を変更し、「まず、私が北側の道路に行った方法ですが、昨日考えているうち、十字路から行ったのではなく、十字路から行こうと思い、図面その五に書いたように、堀越という人の家のあたり迄来たところ、十字路に機動隊がいて通れなかったので、私は、この赤線のように(堀越方)のビニールハウスのところをまわり、左側の畑を突切ってガサ藪の中を通り北側の道路に出た。そして、右側の北方に進んで行き、昨日お話ししたようなところを見たのです。」。

八月四日付検面では、経路については八月三日付検面の内容を維持しながら「私は、この赤線のように進んだのです。私とイワキは、イと書いた付近まで(境原方前付近)まで来ると、このあたりにはヘルメットをかぶり、雑木を持った学生らが二〇人近くいて、図面に書いた細い道に入って行く者もあり、イにはほろのついたそう大きくない警察の車が停っており、火炎びんでも投げられたらしく燃えておりました。私はさらに先に行って見ようと思い、堀越方のあたりまで行ったところ、前方十字路に機動隊の姿が見えドキッとした。そのころ、十字路北側道路方面でわあわあという声が聞こえて来たので……堀越方の脇を通り、桑畑に沿って北に進み、桑畑の切れたところを左に曲り、十字路北方に出た。そして(柏村らに対する攻撃を目撃)した。」旨供述している。

これらの供述は、いわゆる北方事象の目撃を前提とし、そこへ至る経緯、状況についての供述と認められるものであるが、八月二日付検面については、当時、十字路には堀田大隊が警備についており、十字路を右折して北上し得る状況にはなかったこと、寺川二平が手錠のような物を持っていたというのは、十字路での衝突も終息した後のことであり、北方事象を目撃することができる時間ではないことなど客観的事実に反するものであること、また、経路についての最終的な供述である八月四日付検面については、並木は、もともと当日小屋場台に集合することを知っていた者であり、しかも、当日寝過して遅れたというのであるから、青行の者を探して合流しようとすると思われるのに、境原方付近で学生のいるのを見ながら尋ねることもなく、また、学生達が大竹方の方へ向うのを目撃しながら、誰一人いない十字路方向へ何故向かったのか不合理、不可解な点があるなど、客観的事実に反する部分や、不合理、不可解な点があるばかりでなく、同一事象について、何故に、このような激しい訂正、変化があるのか、実際に経験した事実についての供述であるならば、かかる激しい訂正、変化が生ずるとは考えられないものがある。

さらに、並木は、八月二日付、同月三日付、同月四日付、同月五日付及び同月八日付検面において、いわゆる北方事象について詳細に供述し、福島小隊に対する攻撃に加わった者として延べ六三名もの被告人の氏名、行動を供述するに至っているものであるが、同人の供述は、取調べの回を増すごとに同人の行動範囲及び目撃した場所、状況を次第に北方へと範囲を広げたり、例えば、警察官森井信行に対する暴行行為に加わった者として八月二日付では被告人前川六平ら六名の名前を挙げ、八月三日付では更に被告人秋山二男ら八名の名前を追加するなど変遷している(警察官柏村及び同福島に対する攻撃参加者についても同様である)ところ、その変遷について何ら合理的な理由の記載がないばかりでなく、同一事象について実際に経験した事実についての供述であるならば、何故に、かかる激しい変遷が生ずるのかという疑問がある。

更に、並木は、前述のように、北方事象の攻撃に加わったものとして延べ六三名もの被告人の氏名等を挙げているが、その中には、いわゆる後発隊に属し、北方への攻撃に参加することができないと認められる村中六夫が、福島小隊の攻撃に加わっていたとか、検察官においてすら認めていないF、Dの名前も挙げているものである。また、並木は、森井信行に対する攻撃に加わったものとしてプロ学同の奥山五雄、鈴村四夫を名指しで挙げ、その具体的行動を現場図面まで作成して供述しているところ、前記認定のとおり、森井ら福島小隊に対する攻撃は午前六時五〇分前後ころから六時五五分ころまでであり、また、十字路北方から十字路にいた第三中隊第一小隊(畠山小隊)に対する攻撃は午前七時五分前ないし二、三分前から始まり、午前七時ころには被告人らの集団の先頭が十字路に達していたと認められるが、巡査加藤栄治、同若杉賢治各作成の写真撮影報告書の写真に奥山五雄と鈴村四夫が写っていること、右写真の場所は、森井が攻撃された場所から二五〇メートル以上も南方の十字路であるうえ、右加藤、若杉の両名は「これらの写真は、十字路交差点を警備中の機動隊員に向って来たデモ隊の先頭を撮影したものである。」旨供述しており、これらの写真や、写真に写されている現場と森井に対する攻撃現場との距離、その所要時間、福島小隊に対する集団の攻撃状況、畠山小隊に対する北方からの攻撃状況、プロ学同がガサ藪から北方道路に突出した順序等を総合すると、奥山、鈴村の両名が森井に対する攻撃に参加することは時間的にも、状況的にも不可能であったと思料されるものがある。更に、前述のように、「十字路経由で北方へ行く際、十字路手前で寺川二平が手錠のようなものを持っていた。」(八月二日付検面)とか、「北方事象を目撃した後、イワキと十字路へ出て、十字路南東角に停めておいた車で横堀のフロント団結小屋へ行った。」(八月四日付検面)旨供述するが、寺川二平が手錠のようなものを持っていたというのは、十字路周辺での衝突も終息した後のことであって、それから北方事象を目撃できる時期、状況ではないこと、また、当時、並木が車を十字路東南角に停められる状況にはなく、十字路周辺で警備に従事していた堀田大隊員においても、そのような車を目撃した旨供述している者はないなど、明らかに客観的事実に反する供述といわざるを得ない部分も存する。

以上のような検討結果によれば、並木幸雄の捜査段階における供述は、同人が公判廷において不自然、不合理なアリバイを主張する供述をしたことなどに徴すると、その信用性について、積極的に解する余地が若干窺われるものの、その供述内容には、常識では考えられないような著しい変遷や客観的事実に反する供述、時間的、距離的に目撃することが不可能と思われる事象についての供述があるばかりでなく、供述の内容自体、不合理、不自然な点や、客観的に北方事象の攻撃に参加できない者の名を北方事象の攻撃者として挙げるなど、その供述内容には多くの疑問点が存し、その信用性には疑問を抱かざるを得ない。

2 共犯者尾野勇喜雄の検面の信用性について

共犯者尾野勇喜雄は、昭和四七年一月一四日兇準事件で逮捕、勾留されたが、逮捕された二日後から供述を始め、同年二月一日までの間に、請求されたものだけでも同年一月一六日付、同月二一日付(二通)、同月二二日付、同月二四日付、同月二五日付、同月二六日付、同月二九日付(二通)、同月三〇日付、同月三一日付(二通)及び同年二月一日付の合計一三通の検面が作成されているほか、同年七月五日傷害致死事件等で再度逮捕された際にもその二日後から供述を始め、同月七日付、同月九日付、同月一〇日付、同月一二日付、同月一三日付、同月一五日付、同月一八日付、同月一九日付、同月二〇日付、同月二三日付、同月二四日付(二通)及び同年八月八日付の合計一三通の検面が作成されている。

ところで、尾野は、最初の一、二月の兇準事件による逮捕、勾留の段階では、「十字路北方の事象」を除き、本件集団の行動を詳細に供述し、自己の行動については、概ね「ガサ藪を抜け、北上せずにそのまま南下し、十字路付近における畠山小隊への攻撃を目撃した。」旨供述していたものであるが、その後同年七月五日、傷害致死事件等で逮捕、勾留されるや、その二日後からいわゆる「十字路北方の事象」についての供述を始め、以後、柏村信治をはじめ被害警察官に対する集団の攻撃状況、右攻撃に加わっていた者の氏名等を具体的かつ詳細に供述するに至っているものである。

ところで、尾野は、当公判廷において、弁護人の質問に対し、「座間方より北方には行かなかった。」「座間方より北方のことは、自己の記憶に反する嘘の供述である。」旨(七一、七三公)供述しているものであるが、他方、当初、「十字路北方の事象については、犯罪に関係する。」という理由で証言を拒否していた際、裁判長から「捜査段階での供述内容について、今振り返ってみて、このことはどうも間違ったことを話してしまったので、早いとこ訂正しておきたい箇所はありましょうか。」と問われたのに対し、「いえ結構です。」と答えたり、証言拒否の理由について、裁判長から「理由として、あなたがね、北方の事件で処罰を受ける危険性があるということのほかに、それから、もしですね、違うことを言えば、異なったことを捜査段階で言ったということで処罰を受ける危険性もあるというふうに述べられたけど、どっちが主な理由だったのか。」と問われたのに対し、「前です。」と答えているものである。そして、捜査段階における供述は、いずれも長期勾留後の供述というものではなく、逮捕、勾留後僅か二日後から供述を始めているものであるばかりでなく、傷害致死事件等で逮捕された二日後の七月七日付検面において、ガサ藪突出後、すぐ南の十字路に出た旨のこれまでの供述について、「この点は嘘を申し上げたので、只今から本当のことを申しあげます。実は、昨年九月下旬ころの第二次代執行が終ったあとのことですが、私が、午前一〇時ころ車で外出のため家を出たところで栁田八平と会った際、同人から「九月一六日の座間方から北方のことは忘れたか、見てないことにしてくれ。若し、黙秘できそうもなかったら、十字路のことだけ話しておいてくれ。」と頼まれておりましたので、座間方から北には行っていないと嘘を言ってしまったのです。今よく考えてみますと、皆もある程度のことはすでに喋ったと思われますし、私方も今年末には代替地を貰って他所に移住することになっていますので、今更隠しても仕方がないと思い、本当のことを申し上げる気持になったのです。」旨述べ、また、公判廷において、検察官から「無理に供述しろとか、そういうことを言われたことはないですね。」と質問されたのに対し、「だから、前に述べましたように、私は、当時おやじが病気だったもので、ただ早く出たい一心だったんですよね。それだけです。」(七三公)と述べ、捜査段階における供述について、その任意性を認める供述をしているものである。

しかしながら、尾野の検面については、その供述内容自体、その信用性について疑問がある。

尾野の北方事象に関する検面における最終供述によれば、同人の供述内容は、概ね、次のとおりである。即ち、「秋山二男が県有林会議から帰り、東峰十字路にいる機動隊を突破すると説明したうえ、「行くぞ」と号令をかけ、これを受けて三の宮が「行くぞ」と声をかけ、青行が先頭になって出発した。尾野は、先頭に立った青行集団の最後尾から二、三番目の位置で北上した。梅沢方脇の水溜り付近を曲りかけた時先頭が一時停まった。県道上を見ると、境原方で機動隊の小型トラックがUターンしようとしているところであった。立ち停っている間に青行の後方から続いて来た黒と黒茶のまだらの各ヘル一〇〇人位が追越して行き、右集団は梅沢方の東を北上した。そのすぐあと、青行集団の後方にいた一〇名位の者がかけ足で水溜りを渡って境原方前にいた機動隊の車に向かって行った。C、石田九男が火炎びんを投げ、他の八人位の青行が棒で車の前部等を叩いた。車はほろが燃え上がり、運転手は逃げた。攻撃した者が北上すると、一旦逃げた機動隊の運転手が戻って来て、魚屋(境原)のおやじと二人で、ブリキのタライに水を入れて来て車にかけ消火していた。火はすぐ消えた。その後、北上する赤ヘル集団の後を追い、大竹方前を走っているとき、前方には赤ヘル二四、五人位、白ヘル五、六人位がかけているだけで、後続の集団はなかったと思う。ガサ藪の真中あたりに来た時、喚声などが聞えて来た。ガサ藪から十字路北方の道路に出た。向かい側は座間方だった。その道路に出た時、東峰十字路には機動隊の姿は見えなかったが、赤ヘルが一杯広がって攻撃しようとする様子がみられた。座間方前から北方にはビールびんなどの破片が散乱し、五メートル位北方では、怪我したばかりの数人の学生が野戦病院の者に手当を受けていた。そこから北方に行き、道路東側の川田暴行現場と考えられる場所で機動隊員が倒れていたのを見ている。この時、この隊員は誰からも攻撃は受けていなかった。それから更に北上して柏村暴行現場と考えられる場所で倒れていた機動隊員に対する暴行を見た。攻撃を加えていた集団の人数は三〇人位で、白ヘルが一五、六人、赤ヘルが二、三人、黒へル、黒と茶のまだらヘル一二、三人がいたと思った。集団は道路の西側を囲むようにして「殺してしまえ」「やっちまえ」「ぶん殴れ」などと言いながら、棒で叩いたり突いたりしていた。周囲の者をかきわけて内側をのぞいた。日中の学生、相田六男、栁田八平、秋山八男、三の宮文男、龍川九平、Bらの暴行を見ている。自分の周囲には、ほかにA、林五男、齊田六男、木内誠、戸田四男らがいた。栁田が倒れている機動隊員の体を持ち上げ、顔をのぞき込んで「あゝもう駄目だ。」と言い、秋山八男が「ヤナその位でよかっぺ。」と言ったのを聞いた。それから更に北へ行き、森井暴行現場と考えられる場所での機動隊員に対する攻撃を見た。攻撃を加えた集団の人数は一二、三人位で、黒と茶のまだらヘルが一〇人位、白ヘルが三人位だった。集団は西側を向いて半円形を作っていた。島川九雄、前川六平が丸太棒を持って左右に動いており、三、四回列の前に出て、倒れている機動隊員に対し叩いたり突いたりした。その後、自分の立っていたところから五、六メートル北東の路上の山本暴行現場と考えられる場所での機動隊員に対する攻撃を見た。攻撃を加えた集団は赤ヘル二、三人位、黒っぽいヘル四、五人、白ヘル二、三人位の計一〇人位だった。この集団の中に梅田三雄がいたと思う。ほぼ間違いない。この集団は道路の西側から道路中央あたりにいた機動隊員を半円形になって棒で叩きつけていた。機動隊員は一旦路上に転倒したが、また、よろめくように道路端の溝のあるところに行って転げ込んでしまった。この場所での攻撃はほんの一瞬で、集団の殆どが他の攻撃集団に加わった。それから少し北に進み、福島暴行現場と考えられる場所での同じような集団の攻撃を見た。自分が見た地点からそこまでは約三〇メートル位だった。この集団の攻撃は、今まで見て来た二か所より特に激しい攻撃だった。白ヘル一〇人位、黒ヘルと黒と茶のまだらヘル二〇人位、赤ヘル五、六人位いたと思う。この中には、山本現場の集団から加わったのも含まれる。この集団の南側、自分に一番近いところに石田十男、岩川三男、實山七雄、Cがいた。石田らは大体一塊りになって左右に動き回わり、集団の内側である道路西端に出て行っては棒で激しく叩いたり突いたりの攻撃を繰り返していた。また、右現場の向かい側の鈴木暴行現場と考えられる場所でも攻撃が加えられていた。ここでも道路東側に半円形となり、内側に向って攻撃していた。一五人位の者が内側にいると思われる機動隊員を激しく棒で叩いて攻撃していた。その集団の中に植田二雄、長谷三平がいた。九分九厘間違いない。福島現場での攻撃が最も激しい状況だったので、機動隊員は即死したのではないかと感じ、近づくことも恐くなり、このような攻撃を一分位見ただけで東方十字路の方に戻った。そして、十字路手前の土手に上って十字路を見ると、北方から赤ヘルを主力とした集団が大楯を構えて対峙している十字路南と東の機動隊員に激しく火炎びんや石を投げたりして攻撃していた。やがて、十字路東方にいた放水車が、水が切れたのか西方に走り去り、そのあと集団は攻撃を続行し、機動隊は十字路西、南に逃走した。土手の上で見ていたのは二、三分位だった。」というものである。

ところで、尾野は、前述のように、当初兇準事件で逮捕、勾留された際、本件集団の行動について、「十字路北方の事象」を除き詳細に自供したものの、自己の行動については、「ガサ藪を抜け、北上せずにそのまま南下して十字路付近における畠山小隊の攻撃を目撃した。」旨供述し、「十字路北方の事象」については全く触れていなかったのに、その後、傷害致死事件等で逮捕、勾留されるや、間もなく「十字路北方の事象」についての供述を始め、「ガサ藪を抜けて北上し、福島小隊に対する攻撃を目撃してから南下し、十字路付近における畠山小隊に対する攻撃を目撃した。」として、以後、柏村信治、森井信行、福島誠一、山本省吾及び鈴木恒雄の五警察官に対する攻撃状況を含む「十字路北方の事象」を詳細に供述するに至ったものであるが、このように供述が大きく変遷するに伴って、ガサ藪突出の地点が次第に北方に移動したり、十字路付近の土手において畠山小隊への攻撃を目撃していた時間も、当初一五分ないし二〇分位ということから次第に短縮され、最終的には二、三分位と、その供述経緯、供述骨子に大きな変遷が認められるばかりでなく、その供述内容自体においても、日を追うに従って詳細になり、目撃した被害警察官の数が次第に増加している。即ち、「十字路北方の事象」について供述を始めた七月七日には、川田のほかに荒谷と思われる警察官が倒れている状況を供述したほか、柏村に対する攻撃のみを目撃したと供述していたのに、七月九日になると、柏村のほかに森井に対する攻撃も目撃した旨供述し、次いで七月一〇日には福島に対する攻撃も、更に、七月一九日には柏村、森井、福島のほか、山本、鈴木に対する攻撃も目撃したと供述するに至っているものである。また、右のような供述の変遷に並行して攻撃集団の人数、その中にいたものとして列挙する共犯者の氏名も次第に増加するとともに、当初、氏名を挙示しながらもその具体的な行動は判らないとしていた者について、後になって、その個別的、具体的な攻撃状況を供述するに至り、更に、攻撃集団の構成についても、次第に供述内容が詳細となり、その人数やヘルメットの色等についても供述を変えているものである。これらの変遷の理由について、尾野は「よく考えたら思い出した。」とか「記憶違いであった。」と述べるが、右のような極めて重要な事項について、何故にかかる著しい変遷があるのか、しかも、その変遷について納得し得る合理的な理由があるとは認められない。殊に、目撃した被害警察官の数や、これを攻撃した集団の人数が次第に増加し、目撃内容が日を追って詳細になったり、その中での変遷もあることは、事件後約一〇か月を経過した後の供述であることに加えて、当時、既に、笹野九郎、麻生春雄ら共犯者数名が「十字路北方の事象」についての供述を始め、詳細な検面や犯行現場の図面が作成されていたこと等にかんがみると、検察官が主張するような「供述の拡大、深化」とは認め難く、むしろ、自白相互の伝播性を窺わしめるものがある。

更に、尾野の最終供述は、前述のように、「県有林を出発してガサ藪に向かう途中、ニッサンジュニア攻撃とその消火作業を目撃し、その後、先発集団の最後尾付近に位置して進んだ。ガサ藪の真中位で、前方から喚声が聞こえた。ガサ藪を抜けた後、北上しながら警察官に対する集団の攻撃を目撃した後、南下して東峰十字路付近の土手に上り、畠山小隊に対する攻撃と放水車による放水とその西進を見た。」というものであるが、前記認定のとおり、ニッサンジュニアに対する攻撃は、午前六時四五分過ぎで、むしろ、午前六時五〇分に近いころであり、また、同車の運転手西野谷が消火作業をしたのは午前七時に近いころであったと認められること、福島小隊が攻撃を受け始めたのは午前六時五〇分過ぎころであり、攻撃を受け始めてからは僅か数分で背走し始め、その攻撃時間は極めて短時間であったと認められること、更に、十字路北方からの畠山小隊に対する攻撃は、午前七時五分ないし二、三分前から始まり、午前七時ころには先頭集団が十字路に接近していたことが認められること等に徴すると、ニッサンジュニアの消火作業まで目撃し、先発隊の最後尾付近に位置してガサ藪に入り、そのころ、前方から喚声や物音を聞いたという尾野が、ガサ藪を抜けた後、北方の事象、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況を目撃し、その後、更に、十字路での畠山小隊に対する集団の攻撃状況を目撃することは、客観的に不可能な状況にあったと言わざるを得ない。しかるに、尾野は、これらのすべてを目撃した旨供述するとともに「秋山八男は、柏村に対して棒を振り上げ「この野郎」と怒鳴りながら体を乱打した。攻撃が途絶えたとき、栁田が近付いて来て覗き込み「もう駄目だ。」と言った。八男は栁田に向かって「ヤナその位でよかっぺ。」と言った。」とか、「石田十男が福島を丸太棒で激しく叩いたり突いたりした。」などと、福島小隊に対する攻撃を開始した直後の状況と思われる事項について詳細に供述しているけれども、これらの供述は、時間的、場所的に目撃することが不可能な柏村ら福島小隊に対する攻撃を目撃したとの虚偽の供述をしている疑いが濃厚であり、その供述は信用できないと言わざるを得ない。

更に、尾野は、「日中の学生が柏村の横腹を足で蹴り、龍川は地下足袋で柏村の全身、特に足の方、両足の太ももを強く蹴り、Bは丸太棒で両足の太ももを五、六回強く突いた。」(七・二四検)等、柏村を攻撃した集団が、丸太棒や鍬の柄等で柏村の頭部、顔面、胸部、背部等を中心とし、大腿部を含む全身を滅多打ちにしたり足蹴にした旨供述しているが、当時、柏村は大腿部に防護装備品を装着していなかったと認められるのに、前記認定のとおり、柏村の左右両下肢には何等の損傷、異常は認められなかったこと、また、川田の目撃状況につき、「川田は頭を西方に向け、うつ伏せに倒れていた。」(但し、後に「仰向けに倒れていた。」と訂正)「ヘルメットを被った頬付近に血が出ていた。」旨供述しているが、諸岡の川田写真によれば、川田は仰向けに倒れており、その顔面部は、防石面(ライナー)やヘルメットの耳覆いにより、見ることは不可能であったと認められるなど、他の証拠によって認められる客観的事実に反する供述部分も存在する。

また、尾野は、福島小隊員を攻撃したものとして合計二二名を特定し、その具体的氏名を挙げているが、日を追うにつれて供述内容を変えているばかりでなく、極めて混乱した状態の中で、しかも、極めて短かい時間で、このような多数の者を、その位置、行動を識別することが可能であったとは考えられないものがある。

以上のような検討結果によれば、尾野勇喜雄の捜査段階における供述は、極めて具体的かつ詳細であるが、重要な部分について著しい変遷が認められ、しかも、その変遷について合理的な理由が認め難いうえ、時間的、場所的に目撃することが不可能と思われる供述や、客観的事実に反する供述、更には、その供述自体、不合理、不自然な点が多く認められ、加えて、他の共犯者から尾野も福島小隊に対する攻撃に加わっていた旨の供述があるのに、起訴を免れていることなどにかんがみると、その供述の信用性には疑問を抱かざるを得ない。

3 分離前の相被告人麻生春雄の検面の信用性について

分離前の相被告人麻生春雄は、昭和四七年六月二二日兇準、公妨事件で逮捕、勾留され、同年七月三日兇準事件で起訴され、その後、同年八月一日傷害致死事件で再度逮捕、勾留され、同月一二日公妨、傷害、傷害致死事件で追起訴されたものであるが、この間、同年六月二四日付、同月二五日付、同月二六日付、同月二七日付(二通)、同月二八日付、同年七月一日付、同月二日付、同月三日付、同年八月五日付、同月七日付、同月九日付及び同月一一日付の計一三通の検面が作成されている。

ところで、麻生春雄は、昭和五六年一一月二五日の第九五回公判以降精神障害のため公判廷に出頭せず、そのため、当公判廷において麻生春雄に対する被告人質問もなされていないものである。

弁護人は、麻生がこのような精神障害を呈するに至った原因は、本件による逮捕、勾留という身柄拘束にあるとしか考えられない。従って、麻生の検面は、同人が精神障害の状態のもとで作成されたか、精神障害に陥るほどの苛酷な取調べのもとで作成されたもので、任意性、信用性はないというのである。

たしかに、検察官の証拠調請求書添付の報告書及び病状照会回答書、弁護人提出の昭和五八年六月三〇日付診断書によれば、麻生が昭和五八年六月当時「裁判からの赦免妄想、拘禁反応の疑い、せん延した拘禁反応の疑い」のある精神障害の症状を呈していたことは認められるが、同人は、昭和四七年六月の逮捕、勾留の際は、逮捕された二日後から、また、同年八月の逮捕の際は、逮捕された四日後から供述を始めているものであって、長期にわたる拘禁のもとに得られたものとは認められないうえ、証人大野芳春の供述によると、麻生は、取調べ中に異常を窺わせるような言動もなく、かえって、分離公判を望んでいたことなどが認められ、これらの事実によれば、麻生の検面の任意性に欠けるところはないと認められる。

しかしながら、麻生の検面には、その供述内容自体に数々の疑問がある。即ち、

麻生は、当初「2(梅原方西側)の水溜りに来たとき、境原の家の前で幌付トラックが黒く燃え、家の前に突込むように停っているのを一〇メートルから一五メートル前方に見た。その後、小見川県道を横切って北上し、大竹方前を左折して5(ガサ藪手前)に来たとき、7(座間方前道路上)の少し北の方で「わー」という大きな喚声が聞こえた。喚声は一、二分続いた。6(ガサ藪の中)に来たとき、喚声は聞こえなくなった。7でガサ藪を出たところ、右(北方)を見ると直線で、車も警察官も学生集団も見当らず、そのまま南下した。」(六・二五検)旨供述していたのに、その後、六月二七日付検面(但し、前回までに……の文章で始まるもの)以降、ガサ藪突出までの状況についてはこれまでとほぼ同様の供述を維持しながら、北方での目撃状況についての供述をえ、「北上して柏村らに対する攻撃を目撃し、自らも柏村に対する攻撃に加担した。」旨供述するに至っているものである。

しかしながら、六月二八日付、七月一日付、八月五日付各検面及び林文男の九月二一日付実況等を仔細に検討すると、被害警察官川田三郎の転倒していた地点を、当初はガサ藪出口から三メートル北方の地点としていたのを、その後、東幹一二九と一三〇の電柱のほゞ中間地点と変え、柏村信治については、当初、川田の道路反対側西端で約五メートル離れた場所としていたのを、東幹一三〇の電柱と国井方に通ずる脇道との中間付近に、鈴木恒雄については、当初、ガサ藪出口から二五メートル位北方の場所としていたのを、行方跡付近に、更には、東幹一三二の電柱の向かい側にと、また、福島誠一については、当初、ガサ藪出口付近としていたのを、国井方に通ずる脇道の入口付近に、更には、東幹一三二の電柱の北側にと著しく変遷し、特に、鈴木恒雄、福島誠一については、当初供述していた位置から一三〇メートルないし一五〇メートルも北方に移動させているものである。

また、川田三郎について、六月二七日付検面(但し、前回までに……の文章から始まるもの)において「ガサ藪の出口から三メートル位北の道路東端に八人から一〇人位のヘルの色不明の学生集団が固まっていた。制服の機動隊員一人が溝に蹴落され、蹴られていた。」旨、ガサ藪から出て北上する際に目撃した旨供述してたのに、六月二八日付検面においては、ガサ藪から北上し、北方事象を目撃した後、南下する途中「麻生が、ガサ藪から道に出た地点の三メートル位手前の道路左端に来たところ、赤ヘルや他の色のヘル七、八人の学生集団と白ヘルの青行の二名が機動隊員一名を取り囲んでおり、青行の一人が機動隊員を溝に突き落したうえ、溝に降りて一回蹴飛ばしたのを一メートル半位離れた路端から見た。その青行は千代田の笹野九郎だったと思う。」旨供述を一変し、その後はすべて北方から十字路方向に南下する際に目撃した旨供述するに至っているものである。更に、七月一日付検面においては、「川田はすでに溝に落ちており、頭は南、仰向けでもがいており、笹野が足の方を一回、林五男が頭の方を一回それぞれ足蹴にしたのを目撃し、学生集団は、赤ヘルのほかに黒ヘルが加わり、一〇人ないし二〇人であった。」旨供述し、八月五日付検面においては、「学生は、赤ヘル黒ヘル合計一〇人」に、また、八月七日付検面においては、「川田は、初めは道路上に倒れていたが、学生か青行によって溝に落され、笹野は溝に降りて川田の足の方を蹴り、林が頭の方から棒で殴っていた。」旨供述するに至っている。

次に、柏村信治については、六月二七日付検面(前出のもの)において、「八人から一〇人のヘル色不明の学生集団が何かを囲んでいた。機動隊員の姿は見えなかった。誰かが「もう動かない」と言っていた。」旨供述していたのに、六月二八日付検面においては、「ガサ藪から道路に出たとき、秋山八男が北の方に駈けて行ったと述べたのは思い違いである。八男は、倒れた機動隊員を取り囲んでいた赤ヘルなどの学生集団一五人ないし二〇人の傍らに棒を持って立っており、集団の真中辺りに菱田の齊田六雄が棒を持って立っていた。八男は、うつ伏せに倒れている機動隊員の肩を手で掴んで引起し、「のびちゃってら。」と言った。」旨供述するなど、柏村の状況について、当初、「姿は見えなかった。誰かがもう動かないと言った。」から「うつ伏に倒れていた。八男が「のびちゃってらあ」と言っていた。」に、更に、「制服は泥で汚れ、顔はわからず、ヘルメットは被っていたようだ。まだ動いていた。」(七・一検)、「機動隊員は頭を北に、足を南にうつ伏であった。」(八・五検)、「機動隊員はうつ伏で、殴られて痛そうに体をゆっくり動かしていた。」(八・五検)旨供述を変え、また集団の状況については、当初、「八人から一〇人位のヘルの色不明の集団が何かを囲んでいた。」(六・二七検)から、「秋山八男、齊田六雄が集団の傍ら、あるいは中にいたことを追加するとともに、赤ヘルなどの学生集団一五人ないし二〇人と集団の人数を増やし、ヘルメットの色は赤とし。」(六・二八検)に、更に「白ヘルの青行隊員十数名が機動隊員を取り囲むようにして立っており、機動隊員に対して殴る蹴るの乱暴を加えていた。」(七・一検)、「右の青行は、岩山や菱田の青行であり、赤ヘルのほかに黒ヘルもいた。」(八・五検)旨供述を変えているばかりか、当初、「秋山八男、齊田六雄が棒を持って集団の傍ら、あるいは集団の中にいた。」(六・二八検)旨述べるに過ぎなかったのに、七月一日付検面においては、一挙に一〇名もの青行の名を挙げ、B、龍川、A、戸田、秋山八男、栁田、島川、齊田六雄の八名についても柏村に暴行を加えていたこと、寺川、尾野については、その場にいたが、暴行を加えている場面は見ていない旨供述し、七月二日付検面においては、更に、石井恒司、三高協の者二、三名がいたことを追加し、八月七日付検面においては、石田一雄、實山を追加し、八月九日付検面においては、C、植田を追加したほか、寺川、尾野の両名も柏村の攻撃に加わったとし、八月九日付検面においては、麻生自身も柏村の体を棒で一回殴った旨供述するに至っているものである(なお、鈴木恒雄、福島誠一に対する目撃状況についても同様である。)。

右に述べたように、麻生の供述内容は、日を追うにつれて目撃内容が次第に詳細になるとともに、被害警察官の位置、状況、これを攻撃していた集団の人数、攻撃状況等を頻繁に変更したうえ、実行行為の氏名を逐次追加するなど、重要な事項について著しい変遷が認められる。

右変遷について、麻生は、「更に想い出したことを言う。」(六・二六検)、「ガサ藪を出てからの行動や、目撃したことに、なお、思い違いや、想い出したことがあるので、ありの侭述べる。」(六・二八検)、「今迄、機動隊員を襲った青行の名を出したくなかった。しかし、結局、正直に述べなければいけないという気になったので、自分の行為を反省する気持から、本日はありの侭のことを言う。ただ、事件からだいぶ月日がたっており、大勢の人によって起こされた事件であり、自分自身も自分の行動について記憶していない位だから、十分でない点もある。しかし、それは、隠しているのではなく、記憶してないためである。」(七・一検)、「昨日述べた中で更に想い出したことがあるので言う。」(七・二検)、「現場へ連れて行ってもらい、二回、三回と行ったり来たりして想い出すことができた。」(八・五検)旨述べているけれども、実際に経験し、目撃した事象であれば、何故にかかる著しい供述の変遷があるのか、たとえ、麻生が青行の氏名を明らかにしたくなかったとか、激しい混乱の中での出来事で、思い違いをしていたとか、想い出せないことがあったにしろ、常識では考えられないような激しい変遷もあり、その変遷について合理的な理由を認め難いものがある。

次に、麻生は、十字路北方の事象について詳細に供述していることは先に述べたとおりであるが、同人の最終供述によると、麻生は、県有林を出発してガサ藪に向う途中、ニッサンジュニアに対する攻撃を目撃し、更に、ガサ藪手前(但し、後にガサ藪に入ったときと訂正)で、十字路北方で喚声や物を叩く音が聞こえ、ガサ藪の中にいるときに喚声や物音は聞こえなくなった。その後、ガサ藪を抜けて北方道路に出、北上して北方事象を目撃し、自らも柏村に対する攻撃に参加したのみならず、南下して十字路での畠山小隊にする攻撃にも関与し、放水車の放水、西進を目撃した旨供述しているものである。

しかしながら、先に認定説示したとおりのニッサンジュニアに対する攻撃時間、小見川県道を北上してガサ藪を突出するまでの距離、時間、福島小隊に対する攻撃開始時間、攻撃状況、十字路における畠山小隊に対する攻撃、放水車の放水、西進した時間、状況等に徴すると、ニッサンジュニアの攻撃を目撃し、ガサ藪手前ないしはガサ藪に入った地点で喚声や物音を聞いた麻生が、ガサ藪突出後、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況を目撃したり、その攻撃集団とともに柏村に対して暴行を加えた旨の供述には、時間的、場所的に目撃したり、右攻撃に加わることが不可能と思われるものがある。

また、麻生の供述中には、柏村の攻撃に参加した者の中に赤ヘルがいたとか、柏村の転倒していた場所、十字路北方から畠山小隊を攻撃した集団に青ヘルがいたなど、他の証拠によって認められる客観的事実に反する供述部分も認められる。

更に、先に述べたように、麻生の検面の任意性に欠けるところはないと認められるものの、麻生に精神障害の疑いがあり、公判廷において証言できない状況にあることなどを考慮すると、捜査段階における供述の信用性に疑問を抱かざるを得ないものがある。

以上検討したとおり、麻生の検面には、その重要な部分に著しい供述の変遷が認められ、かつ、その変遷について合理的な理由が認められないうえ、時間的、場所的に目撃することが不可能と思われる事項についての供述や、客観的な事実に反すると認められる供述部分も存在し、しかも、麻生が公判廷において証言し得ないような精神状態にあることをも併せ考えると、その信用性には疑問がある。

4 被告人秋山八男の検面の信用性について

被告人秋山八男は、昭和四六年一二月二九日兇準事件で逮捕、勾留され、昭和四七年一月一九日兇準事件で起訴された後、同月二二日保釈されたが、同年七月五日公妨、傷害、傷害致死事件で再度逮捕、勾留され、同月二六日同罪で追起訴され、同年一〇月三〇日保釈されたものであるが、右のように公妨、傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留されている間に、昭和四七年七月一一日付、同月一二日付、同月一三日付、同月二〇日付、同月二三日付、同月二五日付及び同月二六日付の合計七通の検面が作成、提出されている(なお、兇準事件で逮捕、勾留されている間にも、弁護人に開示されたものとして昭和四七年一月六日付等三通の検面の存在が窺われるが、右三通は、検察官において証拠として請求していない。)。

ところで、秋山八男は捜査官に対し、当初、県有林から出発し、小見川県道に出た後、左折して右県道を西進し、東峰十字路に至った(任意性、信用性の判断のために提出された同人の昭和四七年一月九日付司法警察員に対する供述調書及び秋山八男の一〇三公)旨供述(第一の時期の供述という)していたが、その後、後発隊の道案内として県有林を出発し、旧道を北上して小見川県道に出、右県道を西進して東峰十字路に至った後、十字路を右折して北方に向かい、北方における福島小隊に対する攻撃を目撃し、また、これに加わった(昭和四七年七月一一日付から同月二三日付までの五通の検面)旨供述(第二の時期の供述)を変え、最後に、先発隊の道案内として県有林を出発し、農道を北上して小見川県道を横切り、大竹方前から農道を通り、ガサ藪を抜けて十字路北方に出、福島小隊に対する攻撃に参加した(昭四和七年七月二五日付、同月二六日付検面)旨供述(第三の時期の供述)しているものである。

まず、秋山八男の捜査官に対する各供述調書を通読して何よりも、何故に、このように激しい供述の変遷があるのか大きな疑問を抱かざるを得ない。殊に、第二の時期の供述は、後発隊として県有林を出発し、小見川県道に出た後、これを西進して東峰十字路に至り、同十字路を右折して北上し、北方事象に加わったというものであるが、先に認定判示したように、当時、東峰十字路周辺には堀田大隊が警備についており、同十字路を経由して北上することは客観的に不可能であったこと、仮りに、同十字路を経由したとしても、十字路での堀田大隊に対する攻撃が午前七時五分前ないし二、三分前から始まり、午前七時五分過ぎまでであったことを考えると、同十字路での攻撃が終息した後でなければ通過することができず、しかも、その頃には北方事象は終息しており、これを目撃したり、攻撃に参加することは客観的に不可能であったと認められるものである。しかるに、第二の時期の供述は、このような客観的に不可能と言わざるを得ない事項を内容とするものである。秋山八男が作為的に虚偽の陳述したのであろうか。捜査官が、同人から北方事象についての自供を求めるに急なあまり、かかる客観的事実に反すること、不合理な供述内容であることに気付かずに五通もの検面を作成してしまったのであろうか。極めて不可解であり、全く信用性のない供述と言わざるを得ない。公妨、傷害、傷害致死事件で起訴される前日及び起訴当日(第三の時期の供述)に至って、漸くこれまでの不合理な供述内容が是正され、県有林から先発隊の道案内として出発し、農道を北上して小見川県道を横切り、大竹方前に左折し、ガサ藪を抜けて十字路北方の道路上に出、福島小隊に対する攻撃に加わった旨の供述調書が作成されるに至っているものであるが、その北方事象についての供述内容は、先に述べたように全く信用性の認められない前記第二の時期の供述における北方事象についての供述内容とほゞ同一のまま、単に、北方に至る経路についての供述を変更したに過ぎないと認められるものである。秋山八男は、その変更理由について「これまでの供述は嘘で、実は、先発隊の道案内であった。」(七・二五検)とするだけで、その変更について何ら合理的な理由が認められないばかりでなく、右のような供述の変遷部分は、秋山八男が先発隊であったのか、後発隊であったのかということ、旧道を通ったのか農道を通ったのか、更に、小見川県道を西進して東峰十字路へ向かったのか、或は小見川県道を横切って北上し、ガサ藪を通過して十字路北方に出たのかという極めて明解な事項に関するものであって、単なる記憶違いであるとか記憶の深化ということでは説明しきれないものがあり、右のような一連の供述の変遷状況、その供述内容等を考慮すると、右第三の時期の供述についても、その信用性については、疑問を抱かざるを得ないものがある。

そこで、秋山八男が後発隊であったのか、或は、先発隊であったのか、後発隊として県有林を出発し、旧道を北上したのか、或は先発隊として県有林を出発し、農道を北上したのかが秋山八男の検面、ひいては他の共犯者、被告人の検面の信用性について重大な影響を及ぼすものであるので、以下、まず、この点について検討する。

まず、秋山八男は、昭和四七年七月一一日付検面において「この図面のように県有林から出発し、大きな水たまりの中を進み、小見川県道に出た。」旨供述し、同調書添付見取図一に、県有林から二本の実線を小見川県道と直角に引き、その内、西側(左側)の実線を太く小見川県道から東峰十字路方向に左折させ、その先端に矢印を付している。そして、旧道と右実線についての説明を記入している。更に、右太い実線のうち、県有林から小見川県道までの間の、約三分の二の県道寄りの部分を、斜線で囲んだ細長い帯状のものを実線を中心として両側に記入し、更に、県道手前の所に大きな半円状の斜線部分を記入し、旧道上に大きな水溜りのあることを記載している。

右旧道及び水溜りの存在については、本件当時、捜査官側において十分な問題意識を持っておらず、従って、右の点について十分な捜査、実況見分がなされていないが、藤代喜衛の四六・九・一九付実況の見取図その二に、「天神峯一五〇番地堀越昭平方の南側に、小見川県道と直角に交わる道」が図示されており、林文男の四六・九・二一付実況の見取図その二及び同人の四六・九・二二付実況の見取図その二にも同様の道が図示されているほか、堀越昭平の(一二四公)供述によれば、堀越方南側に旧道があり、しかも、本件当日、右旧道上に水溜りのあったことが認められる。そして、福島小隊の深沢正光の「学生らに追われて北林道路から飯田方交差点を右折し、石井武方裏の畑まで逃げた後、東峰十字路に本隊がいると思い、小見川県道を西進して行ったところ、人家の裏を通り過ぎてから沼地に出くわした。沼地は相当深く、中間点まで行ったところ、腰のバンドのあたりまで水があった。」(五四、五五公)旨の供述によれば、右旧道の県道寄りの部分が沼地状の水溜りになっており、しかも、深いところでは、人の腰までの深さのある水溜りであったことが認められ、秋山八男のこの点についての検面は、右のようにこれを裏付けるに足りる証拠もあり、十分信用できると認められるものがある。

そして、秋山八男の小見川県道を西進した後の東峰十字路での堀田大隊に対する攻撃状況、十字路東側にあった警察車両の状況についての供述は具体的かつ詳細であるうえ、他の証拠によって認められる事実とも符合すること、更に、寺川二平の「十字路での攻防が終息した後、十字路で秋山八男と会ったが、同人は下半身水に濡れていた。石田十男も同様であった。」旨(四七・一・八付検)の供述や、後発隊に所属していたと認められる石田十男(八八、八九公)の供述、村中六夫(一二七公)の供述、岡川三夫(一一一公)の供述等を総合考慮すると、秋山八男が後発隊であった旨の各供述は、一概に排斥できず、秋山八男は後発隊であったと認めるのが合理的であると言わざるを得ない。

これに対し、秋山八男の昭和四七年七月二五日付検面では「図面1に赤ボールペンで書いたように、県有林から出発し、左手が山林、右手が畑となっている農道を小走りに進んで行き、県道小見川線まで出たとき、その向かい側の魚屋の前庭付近にホロ付きの機動隊の車が見えました。私は先頭グループの中で進んでいましたが、その車にはかまわずに矢印のように、その魚屋の東側の道路を北に駆けて行った。」旨供述し、調書添付図の一に、県有林から真直ぐ境原方前の小見川県道まで実線を引き、そこから大竹方に通ずる道路入口まで東北東に斜めに線を引き、そこから大竹方方向に実線を引き、矢印を記載している。また、同月二六日付検面では「県有林から出発して県道小見川線を横切り。」と供述しているだけで、通過コースの具体的状況についての供述はない。しかしながら、当時、右農道の小見川県道出口、梅沢方西側にはかなり大きな水溜りがあり、他の先発隊員の多くは、この水溜りを迂回して大竹方方向に向かったか、或は、水溜りを踏み越えてニッサンジュニアの攻撃に参加した旨供述しているのに、秋山八男の供述中には、右のような特徴的、印象的な水溜りに触れた供述の記載がなく、不可解、不自然と思われる。また、ガサ藪の状況についても、他の先発隊員、青行隊員の多くが、ガサ藪の状況、ガサ藪通過の状況等について詳細に供述しているのに、「畑の中を通って行くとガサ藪に突き当たりました。ガサ藪を突き抜けて図面の3に出たところ。」(七・二五付検)、「ガサ藪を突き抜けて。ガサ藪から出たとき」(七・二六付検)との供述があるだけで、この点についても不自然なものがあると言わざるを得ない。更に、秋山八男が先発隊で、しかも、先発隊の先頭部分でガサ藪から十字路北方に突出したことが真実だとすると、当時、十字路には、畠山小隊をはじめ堀田大隊の警察官が多数おり、これを認識し得たと思われるのに、「ガサ藪を抜けた時、右手(北方)の機動隊に気をとられ、十字路の方はあまり見ませんでしたが、ちらっと見たところ、機動隊の姿はいなかったように思います。県有林内でレポの話では十字路に機動隊がいるということでしたが、道路に出て見ると十字路には機動隊は見えず、自分達のすぐ右手に機動隊が北方に移動して来るのかなと思いました。」(七・二五付検)、「レポの報告では、十字路付近に機動隊がいると思っていたので、ガサ藪から出た時十字路に機動隊の姿が見えず、右手に数十人の機動隊の部隊が見えた時、実はちょっと意外に思いましたが、人数が少なかったので、多分、十字路の部隊の一部が北方に移動してきたのだと思いました。」(七・二六付検)旨供述しているものである。たしかに、ガサ藪突出時、その北方の近くに福島小隊がいたことから、これに注意を奪われるということはそれ自体特に不自然とは言えないが、目前に機動隊のいることに気付いたというような、突発的に緊迫した状況に遭遇しながら、十字路方向を確認する余猶があるのか疑問があるばかりでなく、たとえ、ちらっと見たに過ぎないにしろ、十字路に機動隊の姿はなかった旨の右供述は、不自然であるばかりでなく、客観的事実に反するものと認められる。以上のような事情を総合すると、秋山八男の第三の時期の供述は、その信用性に乏しいものがあると言わざるを得ない。

以上検討した結果によれば、秋山八男は、捜査段階第一の時期の供述及び当公判廷における供述のとおり、後発隊の案内役であったと認めざるを得ず、従って、時間的、場所的に北方事象を目撃したり、これに参加することは客観的に不可能であったものであるから、北方事象を目撃したり、これに参加したとする秋山八男の第二の時期の検面は勿論のこと、第三の時期の検面についても、その信用性を認めることはできないと言わざるを得ない。

5 被告人笹野九郎の検面の信用性について

被告人笹野九郎は、昭和四七年六月二二日兇準事件で逮捕、同月二四日兇準、公妨事件で勾留され、同年七月三日兇準事件で起訴され、同月六日保釈されたものであるが、この間、逮捕されて僅か二日後の六月二四日から供述を始め、昭和四七年六月二四日付、同月二五日付、同月二六日付(二通)、同月二八日付、同月二九日付(二通)、同月三〇日付、同年七月二日付、同月三日付、同月四日付の合計一一通の検面が作成されている。

ところで、被告人笹野は、昭和四七年六月二六日付検面までは、県有林を出発して農道を北上し、梅沢方脇の水溜りを踏み越えて小見川県道に出た後、右県道を西進して東峰十字路に至り、そこから同じ道を引返して石井武方の方に向かった旨供述していたものであるが、六月二八日付検面以降これまでの供述を覆えし、梅沢方脇から小見川県道を横切って北上し、大竹方の手前を左折し、落花生畑、ガサ藪を抜けて十字路北方の路上に出、「十字路北方の事象」を目撃した旨詳細に供述するに至っているものである。

笹野のガサ藪突出時の目撃状況についての供述は、「道路に出たとき、右手の方で、先に行った白ヘル、黒ヘルの混成部隊が機動隊に向かって石や火炎びんを激しく投げていた。笹野から一〇メートル位のところに、先にガサ藪を出た三、四〇名の集団が、かたまりになって機動隊に向かって石や火炎びんを激しく投げつけていた。機動隊は暫らく楯を向けて防いでいたがすぐ崩れ、北の方に向かってバラバラに逃げ出した。誰かが「突っ込め」という号令をし、集団の先頭が機動隊を追いかけはじめたので、自分も皆について駆けて行った。」(六・二八付検)、「ガサ藪から出たとき、右手に機動隊が楯を構えており、その機動隊に三、四〇名の白ヘルと黒ヘルの混成部隊が石を投げたり火炎びんを投げたりしていた。しばらくして機動隊の阻止線崩れ、北の方に逃げ出したので、自分もそれを追いかけた。」(六・二九付検)旨、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況から目撃した旨供述しているものであるが、右のような状況は、笹野が、三、四〇人の先頭集団と一緒にガサ藪を抜けるか、先頭集団に続いてガサ藪を抜け、右先頭集団の直後でそれを見ていなければ供述し得ない内容のものである。

ところが、笹野は、「梅沢方脇の県道に出たとき、魚屋の入口付近に警察の幌付きの小型車が止まっており、幌の部分から炎や煙があがっていました。多分、前を進んで行った連中が火炎びんを投げたために燃えているものと思っていました。」(六・二五付検)、「魚屋の入口付近で幌付きの車の幌が燃えていたということは、昨日申しあげたとおり。」(六・二六付一〇丁の検)、「梅沢方脇の水溜りを越えて県道に出たところ、魚屋の庭の中に機動隊の幌付き中型トラックが、尻をバックして入れようとしていた。そこへ、火炎びんを持った連中がその近くまで駆けて行って、何発か火炎びんを投げ、車体を棒で叩いたりした。そのため、車のボンネットあたりから炎があがっていました。」(六・二八付検)旨、その目撃状況、目撃開始時期を次第に早めているという相違はあるものの、一貫して、本件集団によるニッサンジュニアに対する攻撃、そして、ニッサンジュニアの炎上を目撃した旨供述しているものであって、右供述どおり、笹野がニッサンジュニアの炎上まで目撃していたのが事実だとすると、その後、特段の状況の窺われない本件において、笹野が、三、四〇名の先頭集団の者と一緒に小見川県道を横切って北上し、大竹方前からガサ藪を抜けることはできず、むしろ、先頭集団からかなり遅れて小見川県道から大竹方の方へ北上したものと思われるものがある。そればかりでなく、笹野は、「ガサ藪の中を歩いているとき、ボクボクという機動隊の楯に石が当たる音が聞こえ、喚声も聞こえた。」(六・二八付検)旨、ガサ藪内を歩いているときに、本件集団が福島小隊に対する攻撃を開始した物音や、喚声を聞いた旨供述しているところ、先に認定したとおりのニッサンジュニアに対する攻撃開始時間、小見川県道から大竹方前を左折し、ガサ藪を抜けて十字路北方に至るまでの距離、所要時間、特にガサ藪の状況、ガサ藪通過に要する時間、福島小隊に対する攻撃開始時間、攻撃状況、しかも、福島小隊に対する攻撃が短時間で終息したと認められることなどを併せ考慮すると、ニッサンジュニアの炎上を小見川県道上で目撃し、また、ガサ藪内で福島小隊を攻撃している物音や喚声を聞いている笹野が、その後、ガサ藪を出て、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況や、いわゆる北方事象を目撃するということは、時間的、距離的に不可能であり、不合理な供述と言わざるを得ない。

また、笹野は、北方事象についての目撃供述(六・二八付、六・二九付、六・三〇付、七・二付各検)において、北方事象の現場にいた者の氏名を挙げ、その中に内田白民、秋山八男、石田十男、尾野勇喜雄、龍川九平、A、齊田六雄、栁田八平、広川四平、B、木内秀次、木内誠、小平七郎、三の宮もいた旨供述しているが、内田白民(最終的には曖昧である旨供述を変更しているが七・二付検で変更するまで、現場にいた旨断言しているもの)は本件闘争に参加していなかった者、秋山八男及び石田十男は後発隊に属していたと認められる者、尾野勇喜雄(同人の四七・一・一六付、一・二四付、二・二一付、七・一二付各検)、龍川九平(同人の四七・一・一一付、七・一二付、七・一三付、七・二二付各検)、A(同人の四七・一・八付、一・一〇付、一・一五付、七・一二付、七・一三付、七・二五付各検)及び齊田六雄(同人の四七・一・一二付、一・一五付、一・一六付、一・一七付各検)は、いずれも、ニッサンジュニアの消火作業を目撃していたもので、先に認定判示したように、時間的、距離的関係から考えて、北方での福島小隊に対する攻撃に加わったり、その周辺にいることが客観的に不可能であったと認められる者など、他の証拠によって認められる客観的事実に反する部分や、小平七郎については、検察官において兇準事件のみで起訴し、木内秀次、木内誠については、検察官において傷害、傷害致死事件は勿論のこと、兇準、公妨事件についてすら公訴の提起をしないなど、他の関係証拠と対比して、検察官においてすら信用性を疑っていると窺われる部分が認められるものであって、笹野が、捜査官の厳しい追及を避けるために、笹野の知っている青行隊員を適当に挙げた可能性が十分に考えられる。

また、笹野は、六月二八日付検面において、先発隊に労学連を入れ、その名前を挙げているが、他の証拠によれば、労学連の集団が後発隊であったことは明らかであって、右供述部分も、客観的事実に反するものと言わざるを得ない。

次に、笹野の供述中、ニッサンジュニアに対する攻撃の目撃状況について、当初は、ニッサンジュニアを目撃したとき同車に対する攻撃は終わっており、炎や煙の出ているのを目撃した(六・二五付検)旨供述していたのに、その後、同車に対する攻撃が開始される前のニッサンジュニアの状況、そして、右ニッサンジュニアに対する攻撃状況まで詳細に目撃した(六・二八付検)旨供述し、更にその後は、ニッサンジュニアに対する攻撃を目撃した状況についての供述記載が全くなく、単に梅沢方脇から小見川県道を横切って北上した(七・二付検)旨供述するに至っていること、また、北方路上突出の順位と北上の程度と目撃の範囲、内容について、笹野は、ガサ藪から北方路上に出た自己の順位について、徐々にその順位を繰り上げ、また、ガサ藪突出後北上した距離についても、次第にその北上の範囲を広げるなど、その供述内容には著しい変遷があり、しかも、その変遷の理由や経過についての説明はなく、合理的理由が認められないものがある。

更に、笹野は、ガサ藪突出後北方道路に出て、種々の北方事象を目撃した(六・二八付、六・二九付、六・三〇付、七・四付各検)旨供述しているものであるが、笹野は先頭集団の三、四〇名の行動を目撃しただけで、その後、笹野に遅れて北方道路に出たと思われる約二〇〇名の集団について全く触れておらず、笹野が北方道路から南下して来る際も、これらの集団について何ら触れていないばかりか、三、四〇名の先頭集団しか南下しなかったような意味にもとれる供述をしているものであって、不自然、不合理な点があること、また、笹野は、ヘルメットを被っておらず、かつ、北方道路では棒や火炎びんの兇器も持っていなかった旨供述しているものであるが、このようにヘルメットも被らず、兇器も持っていない笹野が、先頭集団に位置してガサ藪を抜け、しかも、先頭集団に続いて北上したのか、その理由、動機についての説明がなく、余りにも不自然であること、また、笹野は、柏村の位置の特定について、国井方脇道を基準として種々その場所を特定、変更しているが、笹野の(九二公)供述にかんがみると、当時、国井方脇道を認識していたとは思われず、捜査官の教示、あるいは誘導によるものではないかとの疑いを払拭することができず、その供述内容について不合理、不自然な点が認められる。

ところで、検察官は、最初に、北方事象、柏村に対する攻撃について、氏名を挙げて供述をしたのは笹野であるから、捜査官において誘導し得ないものであり、笹野の検面の信用性は高いと主張するけれども、笹野の挙げる氏名は、捜査官において、それまでの捜査で知り得た青行隊員等であって、捜査官の誘導と、笹野の推測あるいは迎合によって十分供述することが考えられる内容のものであること、しかも、これまで検討してきたように、笹野の供述内容には、客観的事実に反すると認められるもの、不合理、不自然と認められるもの、捜査官の厳しい追求から逃れるために、笹野の知っている者の氏名を適当に述べたのではないかと思われる部分もあることなど、その供述内容に種々問題があること、そればかりでなく、氏名を挙げてはいないものの、笹野の供述以前に、北方事象について供述している者がいた(島川九雄四六・一二・二五付検。齊田六雄四七・一・一二付、一・一六付、一・一七付、一・二一付各検。尾野勇喜雄四七・一・一六付検等)ことなどにかんがみると、捜査官において誘導することができないような捜査状況、証拠収集状況にあったとは到底認められないものがあり、最初の供述であるからといって、それだけで直ちに信用できるものとは認められない。むしろ、右に述べたような種々の問題のある供述内容や、笹野の迎合的供述内容に徴すると、捜査官の誘導による供述であるとの疑いを払拭できないものがある。

更に、笹野は、柏村に対する攻撃現場にいた者として、秋山八男、栁田八平、広川四平、龍川九平、齊田六雄、B、尾野勇喜雄、E、木内秀次、木内誠、A、小平七郎、三の宮、内田白民の計一四名の名前を挙げ、その後、E、内田白民については供述を変更したものの、それ以外の前記一二名については、右現場にいた旨明確に供述しているものであるが、捜査段階で右現場にいた旨自供した秋山八男、龍川九平、齊田六雄、尾野勇喜雄、A、C、實山七雄、島川九雄、並木幸雄、麻生春雄の各検面を仔細に検討してみても、笹野を右現場で見た旨供述している者は一人もいない。若し、真実、笹野が右現場にいたというのであれば、笹野以外の共犯者らにおいて、右現場にいた笹野を当然に目撃し、笹野の名前を挙げる者が少しはあってもいいと思われるのに、同現場で笹野を目撃したとする者は皆無であって、かかる状況のもとでは、笹野が真実右現場にいたかどうかはともかく、右共犯者らとの著しい供述の不一致は、極めて不自然であって、笹野の柏村に対する目撃状況についての供述は、その信用性に疑問があると言わざるを得ない。

以上検討したとおり、笹野九郎の検面には、その重要な事項について著しい変遷があり、しかも、その変遷について合理的な理由が認められないうえ、時間的、距離的に目撃することが不可能と思われる供述や、供述内容自体、不合理、不自然な点や客観的事実に反する点も多々認められ、その信用性には疑問があると言わざるを得ない。

6 被告人寺川二平の検面の信用性について

被告人寺川二平は、昭和四六年一二月二九日兇準事件で逮捕、勾留されたが、処分保留のまま昭和四七年一月一九日釈放され、その後、昭和四七年七月一四日公妨、傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留され、同月三〇日兇準、公妨、傷害、傷害致死事件で起訴され、同年一〇月三日保釈されたものであるが、この間、一月段階で昭和四七年一月六日付、同月八日付、同月一一日付、同月一二日付、同月一三日付(二通)、同月一四日付、同月一六日付、同月一八日付(二通)及び同月一九日付の一一通の検面と、七月段階で起訴されるまでの間に七月二三日付、同月二四日付、同月二五日付、同月二八日付、同月二九日付(三通)及び同月三〇日付の八通の検面が作成されているほか、起訴後、同年九月一一日付及び九月一三日付の二通の検面が作成されている。

ところで、寺川は、一月段階では、県有林を出発後、農道を北上して小見川県道に出、他の青行の者が境原方前でニッサンジュニアを攻撃するのを目撃した後更に北上し、大竹方前を左折し、ガサ藪を抜けて十字路北方の路上に出た後は北上せず、東峰十字路に向かった旨供述していたものであるが、七月段階では右供述を変え、境原方前でのニッサンジュニアに対する攻撃に寺川自身も加わり(七・二三付検)、ガサ藪突出後北上し、最終的には、福島誠一に対する攻撃状況を目撃(七・二九(一〇丁のもの)付検)し、その後南下して十字路での畠山小隊に対する攻撃状況をも目撃した旨供述するとともに、北方事象について詳細に供述し、寺川自身も柏村信治に対する攻撃に加わり、柏村の左大腿部を地下足袋ばきのまま二、三回蹴りつけた旨(七・二八付検)供述するに至っているものである。

しかし、右寺川の捜査段階における供述は、ニッサンジュニアに対する攻撃につき、当初「魚屋(境原方)の脇を通っていく時、魚屋の前庭のところで機動隊の車が学生の一団の数人に襲撃され、丸太棒でフロントガラスが叩き壊されている最中でした。」(一・六付検)旨、学生集団が攻撃した旨供述していたのに、その後、「襲撃した人数は一〇人位で学生も何人か加わっていましたが、青年行動隊の者の数の方が多かった。」(一・一三付検)、「先頭にいた青行隊一〇人位が突っ込んだが、この車を攻撃したのは全部青行の者です。私も竹槍で右側ボンネットを叩いた。」(七・二三付検)、「青行集団の先頭にいた一〇名位が水溜りの中を突っ切ったり、或は水溜りを回って車の方にかけ寄り、火炎びんを投げ、また、車体を棒で叩いた。」(七・二九付検)旨、学生と青行から最終的には青行だけであった旨供述を変遷させ、また、県有林の出発状況につき、当初「私達青年行動隊のグループが全体の集団の中でどういう行動順位になったのか良く判らなかった。」旨(一・六付検)述べていたが、その後、「私達が出発する前に学生の一団が出発し、走り出した。それは黒ヘルや赤ヘルの学生らでした。青年行動隊は一団となり学生の最も先頭になって進んでいったのではないかと言われますと、そういう覚えがあるような気もします。しかし、途中で私や一部の青年行動隊は遅れてしまい、先頭でなくなりました。」(一・一三付検)、そして、「私達青行が先頭で、その中でも菱田地区が一番先頭で、その後黒ヘル、赤ヘル、黒と茶のまだらヘルが続いた。」(七・二三付、七・二九付各検)旨供述を変え、また、ガサ藪突出後、北上した範囲につき、当初、「ガサ藪を出た後、約五〇メートル北方の3(柏村信治と思われるもの)のところまで行き、そのあと、その少し先で十字路の方に引き返した。」旨(七・二三付検)供述していたのに、「(柏村)の北方約四〇メートルの森井信行と思われる者のところまで行った。」旨(七・二五付検)供述を変え、更には、「それ(森井)より約三〇メートル北方の福島小隊長と思われる者のところまで北上し、攻撃状況を目撃した。」旨(七・二八付検)、取調べの回を増すごとに北上の範囲、目撃した範囲を北へ北へとその供述内容を変えているばかりでなく、柏村信治に関する目撃状況についても、当初「二〇人の青行が輪になっていたので、そこに行って見ました。そこには、図面に書いたように、右の方から齊田六雄、A、小平七郎、尾野勇喜雄、B、戸田四男、龍川九平、三の宮文雄、栁田八平、秋山八男等と、その他まだいたようですが、顔など判りませんでした。」旨(七・二三付検)、二〇人位の集団の中に、齊田六雄、A、小川裕、尾野、B、戸田、龍川、三の宮、栁田、秋山八男の一〇人の名前を挙げていたが、その後、「まわりを囲んでいた者は、大体昨日申しあげたとおりですが、このほか、日中の高杉という男がいたのを思い出しました。高杉は、昨年七月農民放送塔撤去の仮処分があった時、日中のグループの責任者をしており、大木よねさんの小屋にも入っていて知っていた。また、菱田地区で空手を青行に教えたりして、私も二度ほど習ったので知っている。高杉が図面のように、秋山八男と栁田の間あたりにいたように思います。」旨(七・二四付検)日中の高杉の名を挙げ、「取り囲んだ集団の右側から栁田八平、日中の高杉、秋山八男、三の宮、龍川、戸田、B、尾野、私、石田十男、小平七郎、齊田六雄、秋山一郎で、これだけははっきり憶えています。このほか、日中の北が高杉の付近にいたような記憶があります。そのほかMLの吉川九夫、市村四郎がこの取り囲みの一番外側付近にいました。また、その付近に三高協の高校生が四、五名おりました。」旨(七・二八付検)供述し、石田十男、秋山一郎、日中の北、吉川九夫、市村四郎、三高協の四、五人を加え、更に、七月二九日付検(九丁のもの)では、C、植田二雄、岩川三男、長谷三平、石田九男の名前を追加し、七月三〇日付検では、更に、三高協の四、五名の中に出山ひろゆき、Dがいた旨、供述のたびに目撃した者の数、氏名を増加させ、更に、柏村に対する暴行の態様についても、七月二三日付検では、「秋山八男と龍川が機動隊員の脇腹や足の方をそれぞれ一、二回ずつ強く蹴りつけているのを見ました。まわりの者で棒で殴ったのは見ていません。私は、もちろん蹴ったり等全然手を出していません。」旨述べるに過ぎなかったのに、七月二四日付検では、「栁田が、鍬の柄で長さ一メートル位のもので、北向きに仰向けに倒れている機動隊員の胸の辺りを二、三回強く殴りました。日中の高杉は、一、二回機動隊の体を蹴っているのを見ましたし、昨日は、秋山八男は、脇腹あたりを一、二回蹴ったと申しましたが、その前に、持っていた一メートル五〇センチ位の木の棒で、腹や胸を三、四回殴ったのを見ました。」旨、栁田と秋山八男が鍬の柄や棒で殴り、日中の高杉が蹴ったのを目撃した旨供述を変え、七月二八日付検では、「寺川自身も地下足袋ばきのまま、機動隊の左大腿部を二、三回蹴り、石田十男も足で蹴り、その他の者もほとんど足で蹴とばしていた。」旨供述するに至っているものであるが、右のように、寺川の供述は、同一事象について、実際に経験した事実についての供述であるならば、何故にかかる著しい供述の変遷があるのか、常識では理解できないものがあり、その変遷について合理的な理由があるとは認め難いばかりでなく、殊に北方事象については、北上した位置、目撃した警察官の数や、これを攻撃した集団の人数が次第に増加するとともに、取調べの回を増すごとに、その目撃状況が詳細になっていることや、その当時の共犯者の自供状況、供述内容等にかんがみると、検察官が主張するような「供述の拡大、深化」とは認め難いものがあり、その信用性に疑問を抱かざるを得ないものがある。

また、寺川は、「寺川自身、柏村の左大腿部を地下足袋ばきのまま二、三回蹴りつけ、周りにいた者も同様足で蹴ったりしていた。」(七・二八付検)旨供述し、柏村の周囲にいた者の中に、「秋山八男、齊田六雄、尾野勇喜雄、龍川九平、A、岩川三男、C、石田十男」(七・二三付、七・二八付、七・二九付各検)の名前を挙げているが、先に認定判示したように、柏村の下肢、大腿部には、何らの異常、損傷が認められなかったこと、秋山八男、石田十男は後発隊の案内役をしていたと認められる者、齊田六雄、A、尾野勇喜雄、龍川九平、岩川三男、C、は、ニッサンジュニアの攻撃に参加したり、その攻撃を目撃したり、中には消火作業まで目撃していた者で、福島小隊に対する攻撃開始直後の現場にいることは、距離的、時間的に不可能であったと認められるもので、寺川の右供述には、客観的証拠に反するものや、他の証拠によって認められる事実に反するものがあると言わざるを得ない。

更に、寺川は、最終供述として、県有林を出発し、農道を北上して小見川県道に出た後、境原方前でのニッサンジュニアに対する攻撃に寺川自身も加わり、その後、ガサ藪を抜けて十字路北方の路上に出たうえ、北上して、柏村、森井、更には福島小隊長に対する攻撃状況をも目撃し、その後南下して十字路における畠山小隊に対する攻撃をも目撃したと述べるに至っているものであるが、先に認定判示したとおり、ニッサンジュニアに対する攻撃時間、境原方前から大竹方前を通りガサ藪を抜けて十字路北方へ至るまでの距離、所要時間、ガサ藪の状況、福島小隊に対する攻撃開始時間、攻撃状況等にかんがみると、ニッサンジュニアに対する攻撃に自らも加わり、しかも「ガサ藪の手前で「わあ」という喚声や、石が楯に当る音を聞き、喚声を聞いてからガサ藪を出るまでに四、五分かかったように思う。ガサ藪は一列でなければ通り抜けられないようなところであった。」(七・二三付検)旨供述している寺川が、ガサ藪を抜けた後、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況を目撃することは、時間的にも場所的にも不可能であったと思われるものがある。ましてや、柏村に対する攻撃現場に四、五分いた(七・二五付検)という寺川が、北方事象のすべてを目撃し、更には、十字路における畠山小隊に対する攻撃を目撃することは不可能であったと言わざるを得ず、その供述内容自体、不合理、不自然の感を払拭できないものがある。

以上検討したとおり、寺川の検面には、著しい供述の変遷や客観的証拠に反する供述、時間的、距離的に目撃することが不可能と思われる供述、不合理、不自然な供述があるうえ、その供述の変遷の中には、余りにも大きな変遷や経緯等があって、その変遷が、一概に、寺川の記憶の喚起による「拡大、深化」の結果と認めることのできないものがあり、寺川の検面の信用性には疑問をさしはさまないわけにはいかない。

7 被告人實山七雄の検面の信用性について

被告人實山七雄は、昭和四七年二月二日兇準事件で逮捕、勾留され、同月一八日同事件で起訴され、同月二二日保釈されたが、同年七月一四日公妨、傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留され、同月三〇日同事件で起訴された後、同年一〇月三日保釈されたものであるが、この間、昭和四七年二月八日付、同月九日付、同月一三日付、同月一六日付及び同月一九日付の兇準事件段階での五通の検面と、公妨、傷害、傷害致死事件段階での同年七月一六日付、同月一九日付、同月二〇日付、同月二二日付、同月二四日付、同月二六日付、同月二七日付、同月二八日付、同月二九日付及び同月三〇日付(二通)の一一通の検面が作成、提出されている。

その内容を見ると、實山は、二月段階では、県有林を出発し、農道を北上して小見川県道に出た後、境原方前で青行の者がニッサンジュニアを攻撃し、運転手が逃げてゆくのや、女の人が出て来て「燃えちゃうからやめてくれ。」と叫んでいることや、ニッサンジュニアの幌が燃え落ちるころまで目撃した後(二・九付、二・一三付各検)、大竹方前を左折し、ガサ藪を抜けた後南下して十字路での畠山小隊に対する攻撃に加わった旨供述するとともに、「北方事象」についても一部供述し、また、その間実況見分に立会い、ガサ藪突出地点を指示したりしていたものであるが、七月段階になると、ガサ藪突出後の状況についての供述を変え、「北方事象」を詳細に供述し、柏村、荒谷現場を目撃し、また、そこにいた者として多数の者の氏名を挙げるほか、自らも福島、川井田現場でその攻撃に加わり、更に、旧北林事務所跡での状況をも目撃し、そこにいた者の氏名を挙げるなど具体的、詳細に供述するに至っているものである。

右供述中には、「岩川三男が福島誠一の上着のポケットから、警察手帳様のものを取り出すのを見た。」(七・二六付検)とか、「川井田に対する攻撃状況、旧北林事務所跡地での警察車両に対する攻撃状況。」(七・二四付、七・二六付、七・二七付各検)等、実際にその状況を目撃した者でなければ供述し得ないと思われる部分や、被告人、共犯者のうち他に供述している者がなく、その供述内容からしても、取調官において誘導することが不可能と思われる部分があり、信用性が高いと思われるものがある。

しかしながら、實山の捜査段階における供述は、先づ、ガサ藪突出の位置について、当初「私がガサ藪から出た地点は、十字路から約五〇メートルないし六〇メートル北の方であった。」旨(二・九付検)供述していたが、その後、「ガサ藪から出る時は、みんな一か所から出たということはなく、相当の幅をもった所からそれぞれ出た。その幅は、二〇メートルないし三〇メートル位あった。私は、真中位の位置から藪に入った。道路の反対側に家があったかどうか良く覚えていない。」(二・一三付検)、「出た場所が十字路からどの位離れていたか判然とは判りません。」(二・一六付検)と供述し、実況見分に立会した後は「私がガサ藪から出た地点は1(添付図によると、十字路の北方約九三メートル、向かい側に小屋がある座間方から約三二メートル南の地点)である。」(二・一九付検)としていたのに、七月段階では、検面自体には具体的な記載はないが、添付図面上、何らの説明もなく北側に寄せている(七・一九付、七・二四付検)こと、また、北上した範囲につき、当初、ガサ藪突出後十字路方向へと南下した旨(二・九付、二・一三付各検)供述していたものであるが、その後供述を変え、「座間方の北方約一〇メートルの地点」(二・一六付検)から「国井方に通ずる脇道より北、東幹一三二と一三三の電柱の中間よりやや北側の地点」(二・一九付検)、「私は起訴されるまで、藪からこの北側の道路に出て、一〇〇メートル位走ったと考えていて、そのように申しあげましたが、現地を見てきて、一〇〇メートルではなく、もっとかなり走っているのが判りました。しかし、北林事務所というところまでは行っていないと思います。」(七・一六付検)旨、北上地点は明確でないが、旧北林事務所跡までは行っていない旨供述し、更に「4地点(添付図によると東幹一三四の電柱付近で、佐賀現場より北)まで走って行ったとき、岩山青行の者は岩川三男、C、石田一雄、石田九男と私の五人位になっていました。そのとき一〇メートル位先から青行や学生がたくさん北林事務所跡の前の道路付近にかけて、機動隊を追っているのが見えましたが、疲れたので追うのをやめて立ち止まった。」(七・一九付検。七・二〇付、七・二二付各検も同旨)、「それから間もなく、道路の左側に人だかりがあったので北林事務所跡の入口で立ち止まった。門があったかどうかはっきり憶えていないが、門があれば、道路から少し西側に入った門の直前位に立ち止まった。」(七・二四付検)旨供述し、最終的には、旧北林事務所跡地内まで北上した旨(七・二六付、七・二七付、七・二八付、七・三〇付各検)、取調べの回を増すごとに北上した範囲、目撃した範囲を北へ北へと移動させてその供述内容を変えているばかりでなく、北方路上で突出した際の状況につき、当初「道路に出てみると、東峰十字路の付近で青ヘル、赤ヘルの学生集団一〇〇ないし二〇〇名が東峰十字路の方にいる機動隊に向かって火炎びんを投げているのが見えました。」(二・九付、二・一三付各検)としていたものが「南方を見ると十字路から北側に一〇メートル位の地点まで赤ヘルを主体とした学生ら七、八〇名が十字路に向かって進んでいました。この集団には白ヘルはいませんでした。そして十字路の南ハ付近に機動隊が楯をこちらに向けて阻止線を張っているのが見えました。しかし、まだこの時点では十字路の機動隊と十字路手前のロの学生との衝突は始まっていなかった。」旨(二・一六付、二・一九付各検)、何らの説明なく、十字路での衝突は始まっていなかった旨供述を変えているばかりか、七月段階に入ると、「道路に出ました。そのとき、私は、左の東峰十字路の方は見ないで北方に行った。」(七・一九付検)旨、一八〇度供述内容を変えている。更に、北方の目撃状況につき、当初、「北の方を見たところ、図面で矢印を書いた様に黒ヘル、赤ヘルや白ヘルが北の方に向かって走って行っておりました。私から五〇メートル位北方に白ヘルの者が何人か北方に向かってかけて行ったが、それが青行隊かどうかは判りませんでした。」(二・九付検)としていたものが、「私が道路に出た時、私のいた所から三〇メートルないし五〇メートル北側の道路を、他のヘルメットの学生に混って、青行隊と思われる白ヘルを被った者二〇名位が北の方に何かを追いかける様にして走って行くのが見えました。この二〇人位の白ヘルは、今言った一〇〇人位の学生の後方から追っているようでした。」(二・一三付検)、「この地点に出た時に、イ(添付図によると、東幹一三〇の電柱と国井方脇道の中間で、一〇〇メートル北方)付近に集団が道路一杯に固まっているのが見えました。」(二・一九付検)、「東峰十字路の北側の道に出た時、右側つまり北方の道路に白ヘルを被った二、三〇名の私達の青行の者がいた。」(七・一六付検)、「すぐ右(北)を見たら、距離ははっきり言えませんが、三〇メートル位北方のA付近に、仲間の白ヘルや、黒ヘルと一部赤ヘルもいたと思いますが、たくさんの人数が道路一杯に北へ向かって攻めており、その付近に機動隊の姿や楯が五、六人分見えたので、私は、目の前で仲間の集団が機動隊を北の方へ攻めているのだと判りました。機動隊の楯を強く叩く者や、火炎びんを投げて、それが燃え上るのが何個所もあった。」(七・一九付、七・二四付各検)、「更に、私が藪を抜け出て道路へ出たら、私どもの集団である青行や黒ヘルや赤ヘルなどが、北の方へ向かって機動隊員を攻めたてて、逃げているものや、捕まって取り囲まれたりしているのが見えた。」(七・二九付検)旨、取調べの都度、その供述内容を転々と変え、また、川井田に対する攻撃状況につき、当初「川井田は、集団の一人に後ろから殴られたが、倒れたかどうか判らない。」(七・二四付検)旨供述していたのに、その後これを変更し、「草叢に倒れた。」(七・二六付検)旨、更に「Cか町七平のどちらかが叩き、川井田は道路上に倒れた。」旨(七・二七付検)、突如実行行為者を挙示するとともに転倒場所を変更し、また、福島に対する攻撃状況につき、当初「自分が北上する際、暴行されている機動隊員はおらず、北上を終えて南に戻る途中福島が倒れていたが、付近には誰もいなかった。」(二・一九付検)旨供述していたのに、その後、「南へ戻る途中、五、六人の青行と赤ヘルが集まって棒で地面付近を叩いているようだった。」(七・一九付検)、更に「自分は、一〇人位の青行や学生が福島を棒で殴っているのを見ながら走り過ぎて北上し、戻ってきたら青行や学生達が、まだ棒で殴っていた。」(七・二二付検)、「走り過ぎたのではなく(良く見ており)、実は、秋山八男を除く岩山青行の全員でやっつけた。」(七・二六付検)旨、何ら合理的理由もなく、極端に変更するなど、實山の供述は、実際に経験した事実についての供述であるならば、同一の主要な事象について何故にかかる著しい供述の変遷があるのか、理解できないものがあること、殊に、北方事象については、取調べの回が増すごとに北上した地点、目撃した範囲が北へ北へと移動、拡大変化し、その変遷について合理的理由が認められないものがあり、その信用性に疑問を抱かざるを得ないものがある。

更に實山は、ニッサンジュニアの攻撃、女の人が燃えちゃうからやめてと叫んでいるのを目撃(二・九付、二・一三付、二・一六付各検)し、ガサ藪手前で楯を叩く音や喚声を聞き(二・九付、七・一九付、七・二九付各検)、ガサ藪突出後、柏村、荒谷に対する攻撃現場及び柏村に対する攻撃状況を目撃(二・一九付、七・一九付、七・二二付、七・二四付各検)し、その後、北上して、福島小隊長に対する攻撃状況を目撃し、自らもその攻撃に加わり(七・一九付、七・二二付、七・二四付、七・二六付各検)、更に、川井田に対する攻撃状況を目撃するとともに自らも右攻撃に加わり(七・二四付、七・二六付、七・二七付各検)、その後、旧北林事務所跡地まで北上し、警察車両に投石し、また火炎びんを投げられて右車両が炎上するのを目撃(七・二四付、七・二六付各検)した後南下し、十字路における畠山小隊に対する攻撃、放水車の放水を目撃し、自らも畠山小隊に対する攻撃に加わった(二・九付、二・一三付、二・一四付、二・一六付、二・一九付各検)旨供述しているものであるが、先に認定判示したようなニッサンジュニアに対する攻撃時間、境原方からガサ藪を抜け十字路北方に出るまでの距離、所要時間、福島小隊に対する攻撃開始時間、攻撃状況、畠山小隊に対する攻撃開始時間、攻撃状況にかんがみると、ニッサンジュニアに対する攻撃や運転手が逃げ出すのを目撃し、ガサ藪手前で楯を叩く音や喚声を聞いている實山が、ガサ藪突出後、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況から北方事象を目撃することは、時間的、距離的にも不可能であったと思われるものがある。ましてや、先頭集団の直後に続くような状態で、旧北林事務所跡までの北方事象のすべてを目撃したり、これに加わった後、南下して十字路における畠山小隊に対する攻撃を、初期のころから目撃したり、これに加わることは、不可能であったと言わざるを得ず、その供述内容自体、極めて不合理、不自然な感を免れない。

以上検討したとおり、實山の検面には、主要な事項に著しい供述の変遷があり、しかもその変遷について合理的な理由が認め難いうえ、時間的、場所的に目撃するとことが不可能と思われる事項についての供述や、供述内容自体不合理、不自然な点や、他の証拠によって認められる客観的事実に反する部分も多く、その供述の信用性については疑問を抱かざるを得ない。

8 被告人Aの検面の信用性について

被告人Aは、昭和四六年一二月二九日兇準事件で逮捕、勾留され、昭和四七年一月一四日同事件で起訴され、同月一八日保釈されたが、同年七月五日公妨、傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留され、同月二六日同事件で起訴され、同年一〇月三日保釈されたものであるが、この間、昭和四六年一二月三〇日付(二通)、昭和四七年一月八日付、同月一〇日付(二通)、同月一一日付、同月一三日付(二通)、同月一四日付(三通)、同月一五日付(二通)、同月一六日付、同年七月一二日付(二通)、同月一三日付、同月一五日付、同月一八日付、同月一九日付、同月二〇日付、同月三日付、同月二三日付、同月二四日付、同月二五日付及び同月二六日付の合計二六通の検面が作成、提出されている。

Aは、昭和四七年一月一六日付検面までは、ガサ藪突出後南下して十字路に向かった旨供述していたものであるが、七月段階に至って供述を変え、ガサ藪突出後北上し、柏村に対する攻撃状況を目撃したばかりか、自らも柏村攻撃に加わり、その後南下して十字路での畠山小隊に対する攻撃を目撃し、自らもその攻撃に加わり、投石するなどした旨供述するに至っているものである。

ところで、Aの最終供述は、概ね、ニッサンジュニアに対する攻撃、その消火作業を見(四七・一・八付、一・一〇付(一〇丁のもの)、一・一四付(一〇丁のもの)、一・一五付(七丁のもの)、七・一二付(一二丁のもの)、七・一三付、七・二五付各検)、右目撃により集団に遅れ、集団の最後尾になってしまい(一・八付、一・一四付(一〇丁のもの)、一・一五付(七丁のもの)各検)、大竹方からガサ藪に至る間に白ヘル、黒ヘル一〇〇名位の先頭に追いつき(七・二五付検)、ガサ藪に入ってから喚声や物音を聞き(七・二五付検)、ガサ藪出口地点で南方を見ると、南の方に機動隊が阻止線を張っているのを見たが、青行や学生の姿は南の方にはまだなかった(七・一二付、七・一三付各検)、北方を見ると、二、三〇名の機動隊が走っており、そのあと一〇メートル位のところを、二、三〇人の白ヘルならびに黒ヘルが追いかけて行くのを見、自分も前後してガサ藪から出た仲間一〇名位と一緒にわあーっと喚声をあげて走って行き(七・一二付(一五丁のもの)、七・一八付、七・二五付各検)、柏村に対する攻撃状況を目撃し、自らもこの攻撃に加わり(七・一二付(一五丁のもの)、七・一三付、七・一五付、七・一八付、七・一九付、七・二一付、七・二五付各検)、その後南下すると、十字路手前は学生らしい一団がぎっしりと埋めつくして機動隊を攻撃中で、自らもこの攻撃に加わり、投石した(一・一〇付(一〇丁のもの)、一・一五付(七丁のもの)、七・一二付(一五丁のもの)、七・一九付、七・二一付各検)というものである。

しかし、Aの右供述中には、福島小隊に対する攻撃音を聞いた地点について、当初「ガサ藪に入ったところ」(一・八付検)と供述していたのに、何の説明もなく、その後これを変更し、「ガサ藪内の中間より北方道路に近い位置」(七・二五付検)旨著しく供述を変遷していること、しかも、その変遷について合理的な理由は認められないうえ、後記認定のような、ニッサンジュニアに対する攻撃、消火作業を目撃した後、ガサ藪突出までの間に、一七〇ないし一八〇名もの者を追い抜いたとする不合理、不自然な供述内容とを併せ考えると、取調官の作為によるのではないかとの疑いを完全に払拭できないものがある。

またAは、ニッサンジュニアに対する攻撃、消火作業を目撃し、集団の最後尾となったが、ガサ藪に入るまでに一〇〇名位の先頭に追いついた旨供述するけれども、先に認定判示したとおり、大竹方前からガサ藪に至るまで約一四八メートルあり、しかも、この間、茶柵木付近からは幅約五〇センチメートルの農道であって、一列でしか進行することができないところであるのに、このような農道上で先行する集団を一〇〇名以上も追い抜いたり、ガサ藪は竹藪、つる草、笹竹等が密生し、歩行が困難で、他の者が通って踏み固めた跡を通らなければならない状態であったのに、このガサ藪通過中に数十人を追い越し、先頭集団の二、三〇人に続いて十字路北方に出ることは不可能と思われるものがあり、不合理、不自然なものと言わざるを得えない。

更に、Aは、ニッサンジュニアに対する攻撃、消火作業まで見ていたというのであるから、先に認定判示したとおりのニッサンジュニアに対する攻撃時間、消火作業終了時間、境原方からガサ藪を抜け、十字路北方路上に至る距離、その所要時間、福島小隊に対する攻撃開始時間にかんがみると、右のようにニッサンジュニアの消火作業まで見ていたAが、たとえ、先行する集団の一部を追い抜いたとしても(これが信用できないことは、先に述べたとおりであるが)、その後、ガサ藪を突出してから、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況を目撃し、また、自らも柏村に対する攻撃に加わることは、時間的、距離的に不可能と思われるものがあり、その供述内容自体、極めて不合理、不自然と言わざるを得ないものがある。

以上検討したとおり、Aの検面には、主要な事項について著しい供述の変遷が見られ、その変遷には合理的な理由が認められないうえ、時間的、距離的に目撃することが不可能と思われる事項についての供述や、その供述内容自体、極めて不合理、不自然と認められるものがあることなどにかんがみると、その信用性について大きな疑問を抱かざるを得ない。

9 被告人島川九雄の検面の信用性について

被告人島川九雄は、昭和四六年一二月八日兇準、公妨事件で逮捕、勾留されたが、同月一九日処分保留のまま釈放され、その後、昭和四七年七月五日傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留され、同月二六日兇準、公妨、傷害、傷害致死事件で起訴され、同年一〇月三日保釈されたものであるが、この間、昭和四六年一二月二五日付、昭和四七年七月一二日付、同月一三日付、同月二三日付及び同月二五日付の合計五通の検面が作成されている。

ところで、島川の最終供述は、概ね、境原方前でニッサンジュニアに対する攻撃、消火作業を見(四六・一二・二五付、四七・七・二三付各検)、ガサ藪に入る一寸前でわあーっという喚声を聞き(四六・一二・二五付、四七・七・二三付各検)、ガサ藪を抜けた後、国井方の少し北まで行き、須藤次男、川田三郎に対する攻撃状況を目撃し、自らもこれに対する攻撃に加わり(七・二三付、七・二五付各検)、その後南下して、十字路での畠山小隊に対する攻撃を目撃し、自らもその攻撃に加わり、投石したりした(七・一三付、七・二三付各検)旨供述しているものである。

しかしながら、島川の右供述中には、北上の範囲、目撃状況について、座間方付近から行方付近に、更に国井方前付近にと、その供述を著しく変遷させ、取調べの回を増すごとに北へ北へと北上して延伸するなど、その供述内容には著しい変遷があり、その理由、北上の動機について何らの説明もなく、合理的理由を認めることができないものがある。

また、島川が、北方において、他の共犯者らの福島小隊員の須藤次男、川田三郎に対する攻撃状況について供述している内容は、被害者である須藤、川田の被害状況についての供述内容と著しく異なっており、他の証拠に認められる客観的事実に反するものと言わざるを得ないものがある。

更に、島川は、ニッサンジュニアに対する攻撃、消火作業までをも目撃したというものであるから、先に認定判示したようなニッサンジュニアに対する攻撃時間、消火作業時間、境原方からガサ藪を抜け、十字路北方の路上に至るまでの距離、所要時間、福島小隊に対する攻撃開始時間、攻撃状況等にかんがみると、島川が、ガサ藪突出後、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況を目撃し、自らもその攻撃に加わることは、時間的、距離的に不可能と言わざるを得ないものがあり、その信用性には疑問がある。

以上検討したとおり、島川の検面には、時間的、距離的に目撃することが不可能と認められる点があるうえ、他の証拠によって認められる客観的事実に反する供述部分や、不自然、不合理な著しい供述の変遷などが認められ、その供述の信用性には疑問があると言わざるを得ない。

10 被告人齊田六雄の検面の信用性について

被告人齊田六雄は、昭和四七年一月五日兇準事件で逮捕、勾留され、同月二六日同事件で起訴され、翌二七日保釈されたが、同年七月五日公妨、傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留され、同月二六日同事件で起訴され、同年一〇月四日保釈されたものであるが、この間、昭和四七年一月一二日付、同月一三日付、同月一五日付、同月一六日付、同月一七日付、同月二一日付、同月二二日付、同年七月二四日付、同月二五日付及び同月二六日付の計一〇通の検面が作成提出されている。

齊田の検面は、一月段階では、昭和四六年九月初旬の青行の全体会議の様子から当日の行動全般にわたって供述するともに、一部北方事象についても触れ、「家(座間方と思われるが特定していない。)の前に倒れている機動隊員を黒ヘルの者二、三〇人が取り囲んでいた。」(一・一二付、一・一六付、一・一七付各検)旨供述していたものであるが、七月段階では、具体的に被害警察官を特定し、齊田自身のほか柏村に暴行を加えた者の氏名を挙げ、更に北上して森井、福島らの状況を目撃した旨供述するに至っているものであるが、その最終供述は、概ね、県有林を出発し、農道を北上して小見川県道に出た後、境原方前でのニッサンジュニアに対する攻撃に加わり、自らも棒で車体(ボンネットからラジエーター)を叩き、消火作業を目撃(一・一五付、一・一六付、一・一七付、七・二四付各検)した後、再び北上し、ガサ藪の中程で喚声と楯に石が当るとか、楯を叩くような音を聞き(一・一二付、一・一六付、一・一七付、七・二四付各検)、ガサ藪から出ると、機動隊が北方に逃げはじめたところであり(七・二四付検)、柏村に対する攻撃状況を目撃するとともに、自らもこれに加わり、柏村の足を丸太棒で殴打し(七・二四付)、その後、川島方入口付近まで北上し、その間に、須藤、福島に対する攻撃状況を目撃し(七・二四付検)、南下する際に、山本、森井、荒谷に対する攻撃状況を目撃し(七・二四付検)、更に南下して十字路での畠山小隊に対する攻撃、放水車による放水を目撃するとともに、自らもその攻撃に加わり、投石した(一・一二付、一・一六付、一・二一付検)というものである。

しかしながら、齊田六雄の供述中には、ニッサンジュニアに対する攻撃状況につき、当初、「車が燃えているのは見たが、攻撃は見ていない。」(一・一二付検)旨供述していたのに、「攻撃は見ていた。消火作業まで見ていた。」(一・一五付検)旨供述し、更に「自らも棒でボンネットを突いた。」(一・一六付)、「突いた場所は、ボンネットではなく、ラジエーターを突いた。」(七・二六付検)と著しく供述を変え、また、座間方付近に倒れていた機動隊員の位置について、当初「座間方南側に二人を図示しているが、北側には触れていない。」(一・一二付検)のに、その後「農家のすぐ北側の幅一メートル位の道のところ(添付図によると、座間方に接した地点で、ガサ藪を出た斜向側のところ。)」(一・一六付検)、「ガサ藪から出て、北側に五〇メートル足らずのところ(但し、ガサ藪突出地点をかなり南方に移動させている。)」(一・一七付検)と変え、更に、「座間さん方から北に少し行った所に、左に入る小さい道がありますが、その道の五メートル位手前(添付図によると、ガサ藪突出地点を再び座間方のすぐ南側に変え、座間方から六〇メートルないし七〇メートルの地点。)」(七・二四付検)旨、転々と位置を変え、また、座間方北側の機動隊員(柏村と思われる者)に対する攻撃集団について、当初「黒ヘルの学生」(一・一六付検)、「黒ヘル集団」(一・一七付、一・二一付各検)と供述していたのが、機動隊員を柏村と特定するとともに、その攻撃集団の中に青行を加え、「秋山八男、B、龍川九平、A、日中の高杉の名を挙げ。」(七・二四付検)、更に、「栁田八平、三の宮文男もいた。」(七・二六付検)旨、その変遷理由について、何ら合理的な理由についての説明もなく供述を変えているものであって、実際に体験した事実についての供述であるならば、同一事象について、何故に、かかる供述の変遷が生ずるのか、疑問を抱かざるを得ないものがある。しかも自白した共犯者、被告人の供述内容を仔細に検討すると、齊田六雄の検面の内容、特に七月二四日付検面添付の図面、説明等は、それまでに同一内容の供述をしていた麻生春雄、A、龍川九平、寺川二平らの検面に影響されたのではないかと思われる面もあり、その信用性に疑問がある。

また、齊田六雄は、「自ら丸棒を両手で肩の辺りまで振りあげ、力を入れて柏村の左足を殴りつけた。」(七・二四付、七・二六付各検)旨供述し、また、柏村に対する攻撃現場に、「秋山八男、龍川九平、Aがいた。」(七・二四付検)旨供述しているものであるが、先に認定判示したように、柏村の左右下肢、胸腹部に何ら異常、損傷は認められなかったこと、秋山八男は後発隊に属していたと認められる者、龍川、Aはニッサンジュニアの消火作業まで目撃していた者で、柏村攻撃現場にいることが、時間的、距離的に不可能と思われる者であることなどにかんがみると、齊田六雄の供述には、客観的証拠ないしは、他の証拠によって認められる客観的事実に反する部分があると言わざるを得ない。

更に、先に認定判示したとおり、ニッサンジュニアに対する攻撃、消火作業終了時刻、境原方から大竹方前を左折し、ガサ藪を抜けて十字路北方路上に至る距離、その所要時間、福島小隊に対する攻撃開始時間、攻撃状況、畠山小隊に対する攻撃状況等にかんがみると、ニッサンジュニアに対する攻撃に参加し、その消火作業まで目撃したうえ、ガサ藪入口(その後、ガサ藪の中ほどと供述を変えているが)で喚声や物音を聞いている齊田六雄が、その後、ガサ藪を突出し、福島小隊に対する攻撃開始直後の状況を目撃したり、柏村に対する攻撃を目撃し、自らもその攻撃に加わることは、時間的、距離的に不可能と思われるものがあり、この点に関する供述には不合理、不自然の感を抱かざるを得ない。

以上検討したとおり、齊田六雄の検面には、主要な事項について著しい供述の変遷があり、しかも、その変遷について合理的な理由が認め難いうえ、客観的な証拠や、他の証拠によって認められる客観的事実に反する部分や、時間的、距離的に不可能と認められる事項についての供述や、不合理、不自然な点が多く認められ、その信用性に疑問を抱かざるを得ないものがある。

11 被告人龍川九平の検面の信用性について

被告人龍川九平は、昭和四六年一二月二九日兇準事件で逮捕、勾留され、昭和四七年一月一四日同事件で起訴され、同月一八日保釈されたが、同年七月五日再び公妨、傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留され、同月二六日同事件で起訴され、同年一〇月三日保釈されたものであるが、この間、昭和四七年一月一一日付、同月一三日付、同月一四日付、同月一五日付、同月一六日付、同年七月一二日付、同月一三日付、同月一六日付、同月一九日付、同月二二日付、同月二三日付及び同月二四日付の合計一二通の検面が作成提出されている。

龍川の供述は転々とし、一貫しないものがあるが、最終供述として認められるものを纒めると、概ね、次のとおりである。

即ち、県有林を出発し、農道を北上して小見川県道に出、境原方前でのニッサンジュニアに対する攻撃を目撃するとともに、自らもこの攻撃に加わり、消火作業まで目撃し(一・一一付、七・一一付、七・一三付、七・二二付各検)、その後、大竹方前を左折し、ガサ藪入口付近で喚声と物音を聞き(一・一一付、七・一三付各検)、ガサ藪の中にいる間に喚声や物音が聞こえなくなり(七・一三付検)、ガサ藪から出て南方を見ると、十字路付近に機動隊が楯を構えているのが見えたが、その手前の道路上に学生や青行はいなかった(七・一二付、七・一三付、七・一九付各検)、北方を見ると、三、四〇メートル北方に白ヘルの集団が北に行くのが見え、火炎びんの燃える黒煙が約一〇〇メートル位先に立ちのぼっているのが見えた(七・一二付、七・一三付、七・一九付各検)、柏村に対する攻撃現場に行き、自らも柏村に対する攻撃に加わり、柏村の右腿辺りを三回位右足で蹴飛ばし(七・一二付、七・一三付、七・一六付、七・一九付、七・二二付、七・二四付各検)、その後、南下して十字路に行くと、黒ヘルや赤ヘルの二、三〇名が、火炎びんや棒で機動隊を攻撃中であり、集団の畠山小隊に対する攻撃を目撃した(七・一三付、七・二二付各検)というのである。

しかしながら、龍川の供述中には、柏村に対する攻撃位置について、当初、北林事務所付近と供述していたのに、その後、これを当初の位置より二〇〇メートル前後も南方であった旨供述を変更し、また、柏村の転倒していた状況について、当初、思い出せないとしていたのに、その後、南向であったと言ったり、北向であったと言ったり供述を変え、また、柏村に対して攻撃を加えた集団について、当初、取り囲んでいた集団が何をしていたのか思い出せないと供述していたのに、その後、次第に詳細に供述し、秋山八男らが取り囲み、「やっちゃえ。」などと叫んでいた旨供述するもので、その供述内容は、時を追うごととに、取調べの回を増すごとに目撃内容が詳細になるとともに、被害警察官の位置、方向を頻繁に変更したり、集団に加わっていた者の氏名を唐突に増やすなど、実際に経験したものであるならば、何故にかかる著しい変遷が生ずるのか、その変遷について合理的な説明もなく、その信用性に疑問を抱かざるを得ないものがある。

また、龍川は、ニッサンジュニアに対する攻撃を目撃し、自らもその攻撃に参加したうえ、消火作業までも目撃し、更に、ガサ藪入口付近で喚声や物音を聞き、ガサ藪を抜け出る前に喚声や物音が聞こえなくなった旨供述しているものであるが、先に認定判示したとおり、ニッサンジュニアに対する攻撃開始時間、消火作業の時間、境原方前から大竹方前を左折し、ガサ藪を抜けて十字路北方路上に至るまでの距離、その所要時間、福島小隊に対する攻撃開始時間、攻撃状況等にかんがみると、ニッサンジュニアに対する攻撃に加わり、更にその消火作業まで目撃したうえ、ガサ藪を抜ける前に喚声や物音が聞こえなくなったという龍川が、ガサ藪を抜けた後に、福島小隊に対する攻撃開始直後の北方事象を目撃し、柏村に対する攻撃に加わるということは、時間的、距離的に不可能であったと認められるもので、北方事象に関する供述には、不合理、不自然と言わざるを得ないものがある。

更に、龍川は、柏村に対する攻撃に自らも加わり、柏村の右腿辺りを三回位右足で蹴飛ばした旨供述するほか、柏村に対する攻撃集団の中に、秋山八男、栁田八平、広川四平、齊田六雄、B、尾野勇喜雄、A、戸田四男、小平七郎、三の宮文男、C、麻生春雄がおり、秋山八男、栁田八平、広川四平(但し、七・二四付検のみ)、三の宮文男が柏村に対して暴行を加えていた(七・二二付、七・二四付各検)旨供述しているが、先に認定判示したとおり、柏村の胸腹部、両下肢には、何らの異常、損傷は認められないこと、また、秋山八男は後発隊に属していたと認められる者、Cはニッサンジュニアに対する攻撃を目撃し、A、齊田六雄はその消火作業まで目撃していた者で、柏村に対する攻撃集団に加わることは、時間的、距離的に不可能であったと認められる者であることなど、右供述には、客観的証拠に反するものや、他の証拠によって認められる客観的事実に反するものがあると言わざるを得ない。

以上検討したとおり、龍川の検面には、重要な事項について著しい供述の変遷があるうえ、その変遷について合理的な理由が認められないばかりでなく、その供述内容には、時間的、場所的に目撃することが不可能と思われる事象についての供述や、客観的証拠や他の証拠によって認められる事実に反する部分があるなど不合理、不自然な点が多く、その信用性には疑問を抱かざるを得ない。

12 被告人Cの検面の信用性について

被告人Cは、昭和四七年六月二二日兇準、公妨事件で逮捕、勾留され、同年七月三日兇準事件で起訴された後、同月五日保釈されたが、同月二八日傷害、傷害致死事件で再度逮捕、勾留され、同年八月八日公妨、傷害、傷害致死事件で起訴され、同年一〇月三日保釈されたものであるが、この間、昭和四七年六月二四日付、同月二五日付(二通)、同月二六日付(二通)、同月二七日付(三通)、同月二八日付(二通)、同月二九日付、同年七月一日付(二通)、同月二日付、同月三日付、同年八月五日付、同月六日付、同月七日付及び同月八日付の合計一九通の検面が作成されている。

Cの検面は、右のとおり合計一九通という多さではあるものの、北方事象についての供述は少なく、しかも、検察官においてすら、論告においてCの供述を援用していないと窺われるものがあるが、その最終供述は、概ね、次のとおりである。

即ち、県有林を出発し、農道を北上して小見川県道に出た際、境原方前でのニッサンジュニアに対する攻撃、車両の炎上を目撃し(六・二四付、六・二六付(一三丁のもの)、七・一付(一四丁のもの)、八・五付各検)、ガサ藪に入った直後に喚声、衝突音を聞き(六・二四付、六・二六付(一三丁のもの)、七・一付(一四丁のもの)、七・二付、八・五付各検)、ガサ藪内では、先がつまっていてもたもたしており、すぐ道路に出られなかったが(六・二六付(一三丁のもの)、七・二付、八・五付各検)、ガサ藪を出た地点で、Gパンの右腿あたりに焼け跡のある負傷した学生を見(六・二六付(一三丁のもの)、六・二八付(六丁のもの)、八・五付各検)、ガサ藪を出て南方を見ると、十字路の南側に楯で阻止線を張っている機動隊がおり、学生が石や火炎びんを投げたり、楯を叩く等の攻撃を加えており(六・二四付、六・二五付(九丁のもの)、六・二六付(一三丁のもの)、八・五付各検)、北方ではバラバラと学生や青行がおり、北の方は人が一杯いて見通しがきかない状況であった(八・五付、八・七付各検)、約五〇ないし六〇メートル北上し、柏村に対する攻撃現場を目撃し(六・二八付(六丁のもの)、六・二九付、七・三付、八・五付、八・七付各検)、その後南下して十字路に向かい、十字路の手前三〇メートル位の土手の上から畠山小隊に対する攻撃を目撃するとともに、自らも土手をおりて十字路手前から投石し、放水車の放水や西進を目撃した(六・二五付(九丁のもの)、六・二六付(一三丁のもの)、六・二七付、七・一付(一四丁のもの)、八・五付、八・八付各検)というのである。

しかしながら、Cの北方事象についての供述は、当初、「北の方を見ると、機動隊と学生が衝突していたようだが、詳しい事情は忘れた。」(六・二五付)というものであったが、その後、次第に供述を変え、「北の方を見ると、近くに四、五人の学生がおり、さらにその先には沢山の学生がいて、ボカボカという音が聞こえていたので機動隊と衝突しているものと思った。」(六・二六付(一三丁のもの)検)、「北の方に駆けて行くと、A(座間方南端)に實山が、BにA、Cに尾野(B、Cはいずれも座間方前)、D(座間方北端)に林がいたが、いずれも、どんな格好でいたか思い出せない。3(座間方北端、Dとほゞ同じ)の地点に行ったところ、前方約六、七メートルのところに二〇人位の学生や青行が半月状に立っているのを見た。Bと龍川がいたように思う。半月状の中でどんなことがあったのか見ていませんが、機動隊員が中に倒れていたと思う。そこに立っていた人達はただ立っていただけではなかったので、後で様子を思い出して申しあげたい。断言はできないが、さらに北へは行ってないと思う。」(六・二八付(六丁のもの)検)、「半月状に人が立っていたところは、国井方入口の南である。3(座間方と国井方入口の中間)あたりにも人の固まりがあり、實山、戸田、小平七郎、秋山八男、前川、林、龍川がおり、小平の近くの者が棒を振りあげていた。戸田や前列の者が何をしていたか思い出せない。自分の近くにAがいた。そのころ、寺川、並木、齊田六雄の三人が北の方から引き返して来るのを見た。」(六・二九付(一二丁のもの)、七・三付(七丁のもの)各検)、「北方には、バラバラと学生や青行がおり、北の方の見通しはきかない状況だった。皆が北の方へ行ったので、自分も走って北の方へ行った。三〇メートル位行ったところに学生達や白ヘルの青行が密集していたのでそこまで行った。その中に林がいたように思う。そのうちに、寺川、並木、齊田六雄が北の方から駆けて来、それと相前後して北の方から實山、A、小平七郎が同じように駆けて来て十字路の方へ向かったので、一緒に南下した。」(八・五付、八・七付、八・八付各検)旨、その内容は極めて曖味であるものの、供述を変遷させ、しかも、その変遷について合理的な理由等の記載もなく、不合理、不自然な点があり、信用性に疑問を抱かざるを得ないものがある。

Cの検面は、右のように極めて曖昧なものであって、検察官においても、右検面を殆んど援用していないものであるが、十字路北方路上において並木を目撃した旨の供述部分に意味があると解されているので、この点について付言すると、Cは、「座間方の北のあたりにいたとき、北の方から並木幸雄、齊田六雄、寺川二平の三人が引き返して来て、三人の内の一人が、手袋だかヘルメットだかを歩きながら道路の東側に投げ捨てた。」(六・二八付(六丁のもの)、六・二九付、七・三付、八・五付各検)旨供述している。しかし、右供述が事実であるならば、右並木、寺川、齊田六雄の三人のうちの誰かが、Cの供述する現場付近でCを目撃したり、三人が一緒に南下したり、南下する途中で軍手のようなものとかヘルメットとかを投げ捨てた旨供述する者があってもいいと思われるのに、Cの供述に符合する供述をしているものが一人もいないばかりか、他の共犯者が並木を目撃したとする供述内容とも相違することなどに照らすと、右供述も、たやすく措信できない。

次に、Cは、柏村に対する攻撃現場にいた者として、秋山八男、實山七雄、戸田四男、小平七郎、前川六平、林五男、龍川九平を挙げ、その付近にAもいた(六・二九付(一二丁のもの)、七・三付(七丁のもの)各検)旨供述し、また、前述のように、寺川二平、齊田六雄が並木と一緒に北方から南下して来るのを目撃した旨供述しているものであるが、秋山八男は後発隊に属していたと認められる者、A、齊田六雄はニッサンジュニアの消火作業まで目撃していた者、實山七雄、戸田四男、寺川二平はニッサンジュニアに対する攻撃を目撃していた者で、柏村に対する攻撃現場にいることが不可能であったと認められる者や、Cより先にガサ藪を抜けて柏村に対する攻撃現場に赴いたり、その北方から引き返して来ることが時間的、距離的に不可能であったと認められる者であるから、Cの右供述は、他の証拠によって認められる事実に反するものと言わざるを得ない。

更に、Cは、先に述べたように、ニッサンジュニアに対する攻撃、車両の炎上を目撃し、ガサ藪に入った直後喚声や物音を聞き、ガサ藪を抜けるのに先がつまっていてもたもたした旨供述しているところ、先に認定判示したように、ニッサンジュニアに対する攻撃時間、境原方前から大竹方前を左折し、ガサ藪を抜けて十字路北方路上に至るまでの距離、その所要時間、福島小隊に対する攻撃時間、攻撃状況、畠山小隊に対する攻撃開始時間等にかんがみると、ニッサンジュニアに対する攻撃、車両の炎上を目撃し、ガサ藪に入った直後に喚声や物音を聞いているCが、ガサ藪を抜けた後に柏村をはじめとする福島小隊に対する攻撃開始直後からの北方事象を目撃し、その後南下して畠山小隊に対する攻撃を目撃するとともに、自らその攻撃に加わるということは、時間的、距離的に不可能であったと認められるものがあり、Cの供述には、不合理、不自然と言わざるを得ないものがある。

以上検討したとおり、Cの検面には、主要な事項について著しい供述の変遷があるうえ、その変遷について合理的な理由が認められないばかりでなく、その供述内容には、時間的、距離的に目撃することが不可能であったと認められる事象についての供述や、他の証拠によって認められる事実に反する部分があるなど不合理、不自然な点が多く認められ、その信用性には疑問があると言わざるを得ない。

13 被告人林五男の検面の信用性について

被告人林五男は、昭和四七年一月一四日兇準事件で逮捕、勾留され、同年二月四日兇準、公妨事件で起訴され、同月八日保釈され、同年七月五日傷害、傷害致死事件で逮捕、勾留されたが、同月八日勾留の裁判が取消されて釈放されたものであるが、この間、昭和四七年一月一六日付(二通)、同月二〇日付、同月二一日付、同月二三日付、同月二四日付、同月二六日付、同月三〇日付及び同年二月三日付の計九通のほか、公訴提起後の昭和四七年二月七日付及び同年三月二日付の二通の検面が作成、提出されている。

林の検面中、北方事象に関する供述は少なく、「私がガサ藪から出た時、右手のイあたりの民家の近くの道路上で赤と黒のヘルメットを被った一〇人位の者が、殆んど皆棒を持って、その棒で何かを取り囲んで滅多打ちに殴っているのが見えました。私のいた地点からイまで一二、三メートル位の距離であった。殴っているイの集団から八メートル位南の方を、龍川が南に向かって駆けて来た。」(一・二一付検)、「先に述べた赤ヘル、黒ヘルに混じって青行の戸田が、棒を二、三回振りあげては振り下しているのを見た。戸田のほかに青行らしい者が二名位いた。私のところから約八〇メートル位北方を、学生に混じって白ヘルの者三名位が北の方に向かって走っていた。その中の二名が秋山一郎、Aのように見えた。何時も付合っている連中ですから、体つきで二人だと感じたが、距離が相当あったので断言はできません。」(二・七付検)というものである。

しかしながら、当時、多数の学生、青行がおり、混乱状態にあったと認められる北方において、約八〇メートルも先におり、かつ、学生と混じって行動していた秋山一郎、Aを識別し得るものかどうか疑問があるばかりでなく、林が北方で見たという秋山一郎、A、龍川九平のうち、A、龍川九平の両名は、ニッサンジュニアに対する攻撃、消火作業まで目撃していた者であって、林を追越して福島小隊に対する攻撃開始直後の北方に至ることは、時間的、距離的に不可能であったと認められるものであるから、林の右供述には不合理、不自然な点があると言わざるを得ない。

また、林は、県有林出発時、石田十男が先発隊におり(一・三〇付検)、ガサ藪突出時、林のそばに内田白民がいた(一・二一付検)旨供述しているが、石田十男は後発隊に属していたと認められる者、内田白民は本件闘争に参加していなかった者で、林の右供述は、他の証拠によって認められる客観的事実に反するものと認められる。

以上検討したとおり、林の検面には、他の証拠によって認められる客観的事実に反する供述や、時間的、距離的に目撃することが不可能であったと思われる不合理、不自然な供述部分が多く、その信用性には疑問がある。

14 各自供者の供述内容及びその変遷等について

死亡した柏村信治ら三名の警察官に対する攻撃状況を目撃した旨供述している被告人、共犯者一三人のうち、被告人笹野九郎ら一二人は、捜査段階において、柏村に対して暴行を加えた者及び柏村を取り囲んでいた者の名前を具体的に供述し、森井に対する攻撃状況については、尾野勇喜雄ら四人が、また、福島に対する攻撃状況については、尾野勇喜雄ら五人が供述している。

そこで、目撃供述が最も多く、その内容も詳細な柏村に対する攻撃についての各検面を、作成日付順に並べ、その挙示する氏名を並べてみると、次のとおりである(なお、挙示する氏名の上の◎は、具体的に暴行を加えていたとされる者、無印は攻撃集団の中にいた者、△は集団の中にいたと思われるが、はっきりしないとされる者、×は一旦挙示されたが、除外されたものを表わす。)。

六・二八笹野 ◎栁田、◎八男、◎広川、龍川、六雄、B、尾野、内田、E、秀次、F、三の宮、笹野

C 龍川、B、C

麻生 八男、龍川、麻生

六・二九笹野 六・二八と同じ

C 八男、龍川、B、前川、A、戸田、裕、實山、石田一雄、C、九男、林

六・三〇笹野 ◎栁田、◎八男、◎広川、龍川、六雄、B、尾野、内田、×E、秀次、誠、A、七郎、◎三の宮、笹野

七・一C 八男、龍川、B、前川、A、戸田、七郎、實山、石田一雄、C、九男、林

麻生 ◎栁田、◎八男、◎龍川、◎齊田、◎B、尾野、◎A、◎戸田、實山、石田一雄、寺川、C、九男、◎島川、麻生、植田

七・二笹野 ◎栁田、◎八男、◎広川、龍川、齊田、B、尾野、△内田、秀次、誠、A、裕、◎三の宮、笹野

C 八男、龍川、B、前川、A、戸田、七郎、實山、石田一雄、C、九男、林

麻生 ◎栁田、◎八男、◎龍川、◎齊田、◎B、尾野、◎A、◎七郎、石田一雄、寺川、C、九男、◎島川、麻生、植田

七・三C 八男、龍川、B、前川、A、戸田、七郎、實山、石田一雄、C、九男、林

七・四笹野 ◎栁田、◎八男、◎広川、龍川、齊田、B、尾野、秀次、誠、A、七郎、三の宮、笹野

七・七尾野 栁田、八男、龍川、齊田、B、尾野、誠、A、三の宮、◎相田、林

七・九尾野 ◎栁田、◎八男、◎龍川、齊田、B、尾野、誠、A、戸田、◎三の宮、◎相田、林

七・一一八男 栁田、◎八男、広川、三の宮、△相田

七・一二八男 栁田、◎八男、広川、三の宮

A ◎広川、◎龍川、◎A、◎三の宮

七・一三尾野 ◎栁田、◎八男、◎龍川、齊田、◎B、尾野、誠、A、戸田、◎三の宮、◎相田、麻生

A ◎広川、◎龍川、◎A、◎三の宮

七・一六龍川 栁田、八男、◎龍川、B、七郎、◎三の宮

七・一八A ◎広川、◎龍川、◎A、◎三の宮

七・一九尾野 ◎栁田、◎八男、◎龍川、齊田、◎B、尾野、誠、A、戸田、◎三の宮、◎相田、林、熱田

A ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、◎A、◎三の宮

龍川 栁田、◎八男、広川、◎龍川、齊田、B、A、戸田、七郎、◎三の宮、C、麻生

七・二〇A ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、◎A、◎三の宮

七・二一A ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、B、◎A、七郎、◎三の宮、C

七・二二龍川 栁田、◎八男、広川、◎龍川、齊田、B、尾野、A、戸田、七郎、◎三の宮、C、麻生

七・二三八男 栁田、◎八男、◎龍川、◎E、◎A、◎戸田、◎三の宮、◎C、◎相田

寺川 栁田、◎八男、◎龍川、齊田、B、尾野、A、戸田、七郎、三の宮、寺川

七・二四尾野 ◎栁田、◎八男、△広川、◎龍川、齊田、◎B、尾野、誠、A、戸田、◎三の宮、◎相田、林、熱田

A ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、◎齊田、B、◎A、◎戸田、七郎、◎三の宮、C

龍川 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、齊田、B、尾野、A、戸田、七郎、◎三の宮、C、麻生

寺川 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、齊田、B、尾野、A、戸田、七郎、三の宮、寺川

齊田 八男、広川、龍川、齊田、B、A

七・二五八男 栁田、◎八男、◎龍川、◎E、◎A、◎戸田、◎三の宮、◎C、◎相田

A ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、◎齊田、B、◎A、◎戸田、七郎、◎三の宮、C、麻生

齊田 ◎八男、◎広川、◎龍川、◎齊田、◎B、◎A

七・二六A ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、◎齊田、B、◎A、◎戸田、七郎、◎三の宮、C、麻生

齊田 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、◎齊田、◎B、◎A、◎三の宮

七・二八寺川 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、齊田、B、尾野、戸田、七郎、三の宮、寺川、◎十男、一郎、市村、吉川

七・二九寺川 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、齊田、C、尾野、前川、A、戸田、七郎、三の宮、◎寺川、C、◎十男、一郎、市村、吉川、三男、長谷、町

七・三〇寺川 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、齊田、B、尾野、前川、A、戸田、七郎、三の宮、◎寺川、C、◎十男、一郎、市村、吉川、三男、長谷、町、D、出山、植田、△古川

八・二並木 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、C、並木、三男、長谷、町、植田

八・三並木 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、B、E、A、七郎、C、並木、三男、長谷、町、植田

八・四並木 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、C、△F、A、七郎、C、並木、林、三男、長谷、町、植田

八・五C 八男、龍川、B、前川、A、戸田、七郎、實山、石田一雄、C、九男、林

麻生 ◎栁田、◎八男、龍川、◎齊田、◎B、尾野、◎A、◎戸田、實山、石田一雄、寺川、C、九男、◎島川、麻生、植田

八・七並木 ◎栁田、◎八男、◎広川、◎龍川、B、A、七郎、C、並木、林、三男、長谷、町、植田

八・九麻生 ◎栁田、◎八男、龍川、◎齊田、◎B、尾野、◎A、◎戸田、實山、石田一雄、寺川、C、九男、◎島川、麻生、植田

麻生 ◎栁田、◎八男、龍川、◎齊田、◎B、◎尾野、◎A、◎戸田、實山、石田一雄、◎寺川、C、◎九男、◎島川、◎麻生、植田

右供述日時、供述内容を見ると、日を追うにつれて挙示する名前が多くなり、当初一三名であったものが、最終的には三八名の多きを数える。しかも、これらの各供述は、柏村に対する攻撃現場という限られた範囲の事象について、そのうえ、供述者のすべてが右現場にいたという者の供述であるのに、その相違の大きさに驚かされるものがある。実際に一つの事象を見たのであれば、多少の喰い違い、記憶違いが生ずることがあるにしても、それ程大きな違いは生じ得ないと思われるのに、右各供述者間の供述の違いは大きく、その相違には、理解に苦しむものがある。

また、各供述者の供述内容を見ると、当初は単に集団の中にいたに過ぎないとされていた者が、時を追うにつれ、また、他の供述者の供述内容と符合するように、具体的な暴行まで加えていた者である旨供述が変更されたり、また、例えば、六月二九日にCがA、戸田、七郎、實山、石田一雄、九男等の名前を挙げると、六月三〇日に笹野、七月一日に麻生からそれぞれ同じ名前が挙げられたり、六月二八日に笹野から「八男が栁田に「ヤナどうとかこうとか」言った。」という供述が出ると、六月二九日にC、七月一日に麻生、七月七日に尾野、七月一一日に八男から、それぞれ同旨の供述が出て来るなど、ある自供者から特定の氏名や、或る事象についての供述が出ると、間もなく他の供述者から同旨の供述がなされるなど、種々の事項について自供の伝播性が窺われるものがある。また、柏村を攻撃したり、攻撃集団にいたとされる者の数は、自供者によって著しく異なるものがあるが、中には、検察者においてすら採用していない者の氏名を挙げる供述者もいるなど、迎合的、過剰供述ではないかと思われるものがあり、右各供述者の供述を通観しても、その信用性に疑問を抱かざるを得ないものがある

結論

以上検討して来たとおり、いわゆる北方事象に関する共犯者、被告人らの捜査段階における供述には、その信用性に多くの疑問が存するといわざるを得ない。そして、右の点に関する共犯者、被告人らの自白は膨大な量にのぼるが、その中に、厳密な意味での「秘密の曝露」にあたるものは、結論的にいって、これまた存しない。

また、これらの自白が、現在の最終形に落着くまでに数多くの曲折を重ね、また、さまざまな変遷を辿っているものであって、その変遷の中には、あまりにも激しい訂正や、その経緯等に徴すると、その変遷を一概に被告人らの記憶の欠落や思い違い、誤りないしは意図的な秘匿や虚偽混入が捜査官の追及によって修正され、是正されて真実に近づいて行く過程であると認めることのできないものがある。そして、その最終形においてすら、自白相互に矛盾があるばかりでなく、検察官においてすら容認せざるを得ないような過剰自白、虚偽自白の存する部分がある。

また、共犯者、被告人らの自白については、共犯者の一人からある自白が出ると、その事項に関連してすぐにそれと同趣旨の自白が他の共犯者から出るという自白相互の伝播性が顕著に認められるところ、これらは、取調官の介在、誘導を抜きにしては説明できないものがあり、自白の信用性に疑問をさしはさまないわけにはいかない。

以上のとおりであって、共犯者、被告人らの北方事象に関する捜査段階における供述に信用性が認められない以上、被告人らが福島小隊員に対する攻撃に直接関与したことを認めるに足りる証拠はないといわざるを得ない。

しかしながら、本件被告人らは、いずれも、県有林会議の結果、十字路周辺で警備中の警察官に攻撃を加えることを共謀し、また、たとえ、県有林会議の内容を知らなかったとしても、被告人らは、予め、警備中の警察官に対し、火炎びん、丸棒等で攻撃し、その警備を突破して駒井野に向かうことを計画し、火炎びん、丸棒等を用意して本件集団に加わり、以後本件集団とともに行動し、本件現場で集団の者らと意見相通じて、集団の者とともに堀田大隊に対する攻撃に加わっているものであるから、直接攻撃に加わったと認めるに足りる証拠がないとして兇準、公妨事件のみで起訴された被告人との対比において不公平感を免れないが、傷害、傷害致死事件で起訴されている以上、共謀共同正犯として傷害、傷害致死についての刑責を免れ得ないものといわざるを得ない。

(各被告人らの個別行動について)

本件各証拠を総合すると、青行、三高協等に属する被告人らが、弁護人及び右被告人らの主張するように、ガサ藪突出後、全員が北方に向かわず、十字路に向かったとも思われない面もあるが、かといって、右被告人らが、ガサ藪突出後北方に向かい、福島小隊に対する攻撃に加わったと認めるに足りる証拠のないことは前述のとおりであるところ、証拠によって認められる公訴事実の範囲内での各被告人の個別行動は、次のとおりである。

1  被告人秋山一郎

被告人A(九四公)及び被告人秋山一郎(九九公、一〇〇公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月一〇日ころ中郷公民館で開催された菱田青行の会議に出席したこと

(二)  九月一四日ころ、菱田青行が、本件闘争に備え、三の宮文男方で火炎びん一〇〇本以上を製造した際、右製造に加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用して小屋場台に赴き、同所において本件集団に加わったが、三の宮の指示で尾野勇喜雄とともに小型トラックで三の宮方の裏山から火炎びん一〇〇本以上を運搬して来て、横堀公民館付近で集団参加者に配布し、その後残った火炎びんを隠しに行ったこと

(四)  そのため、集団から遅れ、横堀公民館付近で出会った秋山二男、前川六平、石田十男らとともに集団の後を追い、県有林で集団と合流したこと

(五)  右県有林内で長さ約一メートルの木の棒を所持したうえ、集団とともに県有林を出発し、小見川県道を横切って北上し、ガサ藪突出後、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したことが認められる。

2  被告人F

被告人D(一一三公)及び被告人F(一一五公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  三高協に所属し、昭和四六年九月上旬及び中旬、芝山農協で開かれた三高協会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、闘争スタイルで小屋場台に赴いて本件集団に加わり、長さ約一メートルの丸棒を所持したうえ、本件集団とともに、横堀公民館、県有林からガサ藪を抜け、その後、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したことが認められる。

3  被告人天川二郎

岡林茂の検面(四七・一・一四付)、浅井雄治の検面(四七・二・一八付、四七・二・二一付)及び被告人岡山二夫(一二九公)の供述によれば、同被告人は、

(一)  叛旗派に所属し、昭和四六年九月一五日午後七時ころから辺田公民館で開かれた叛旗派全員による全体集会及びこれに引続いて叛旗派団結小屋で開かれた地区代表者会議に北部・埼玉地区の代表として出席したこと

(二)  本件犯行当日、丸棒、火炎びんで武装した叛旗派約五〇名の実行部隊の一員として小屋場台に赴き、以後、本件集団とともに、県有林、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと兇器の準備あるを知って集合移動したこと

が認められる。

4  被告人石谷三郎

被告人秋山八男(一〇三公)及び被告人石谷三郎(一一三公)の各供述によれば、同被告人は

(一)  菱田青行に所属し、同青行の世話役をしており、昭和四六年九月上旬、中谷津青年館で開かれた各青行と諸セクトの代表による代表者会議、同月上旬、芝山農協で開かれた青行の全体会議、中郷公民館での菱田地区の青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が本件闘争に備えて火炎びんを製造するに際し、製造に必要な空びんを集めたこと

(三)  本件犯行当日、長さ約一メートルの丸棒を所持して小屋場台に赴き、以後、本件集団とともに県有林、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

が認められる。

5  被告人市村四郎

被告人秋山八男(一〇三公)、同栁田八平(一一三公)、同木五男(一一三、一一四公)、同村中六夫(一二七公)及び被告人市村四郎(一三一公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  ML派に所属し、常駐組の代表として昭和四六年九月上旬の芝山農協における各青行及び諸セクト代表者による全体会議、九月一五日の中谷津団結小屋での最終連絡会議に出席したこと

(二)  本件犯行当時、黒ヘルを着用して小屋場台に赴き、同所で丸棒を所持して本件集団に加わり、以後、本件集団とともに県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

が認められる。

6  被告人梅川五郎

岡林茂の検面(四七・一・二〇付)、石川洋の検面(四七・三・二一付、四七・三・二四付)及び池田寛二の供述(七四公)によれば、同被告人は、

(一)  叛旗派に所属し、現闘団の一員であったこと

(二)  昭和四六年九月一四日ころ、叛旗派の団結小屋において、岡林茂らに火炎びんの製造を指示したこと

(三)  本件犯行当日、被告人柳七夫とともに武器運搬を担当し、かねて同派が製造した火炎びん約八〇本、丸棒約一五〇本を小型トラックで小屋場台に運搬し、同所で叛旗派の者にこれらを配布したこと

が認められる。

7  被告人小平六郎

大宮育雄の検面(四七・二・一七付)及び被告人小平六郎(一一〇公)の供述によれば、同被告人は、

(一)  宇大全共闘に所属し、昭和四六年九月一五日夜、宇大団結小屋で開かれた宇大全共闘の会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、黒ヘルを着用し、竹竿を所持して団結小屋を出発し、小屋場台で本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、県有林、ガサ藪突出後、再びガサ藪に戻り、小見川県道を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したことが認められる。

8  被告人小平七郎

被告人前川六平(八五公)、同寺川二平(九四公)及び被告人小平七郎(一〇二公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月一〇日ころ、中郷公民館で開かれた菱田青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、寺川二平方で菱田青行が火炎びん一五〇本以上を製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用して小屋場台に赴き、本件集団に加わり、横堀公民館付近で長さ約一五〇センチメートルの丸棒を所持したうえ、集団とともに県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

が認められる。

9  被告人大川八郎

被告人林五郎(一一三公)、同梅山四雄(一二八公)及び被告人大川八郎(一二七公)の各供述等によれば、同被告人は、

(一)  人民連帯の中郷団結小屋に常駐し、同小屋の責任者であったこと

(二)  本件犯行の前日、中郷団結小屋で開かれた人民連帯の全体会議に出席し、その席上、三里塚闘争の意義等について演説したこと

(三)  本件犯行当日、黒ヘルを着用、丸棒を所持して小屋場台に赴き、同所で本件集団に加わり、以後、集団とともに、県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

が認められる。

10  被告人笹野九郎

被告人相田六男(一二七公)及び被告人笹野九郎(九一公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  千代田青行に所属し、昭和四六年九月上旬、芝山農協で開かれた青行の全体会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、闘争スタイルで小屋場台に赴いて本件集団に加わり、横堀公民館前で丸棒を所持したうえ、以後、本件集団とともに、県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

が認められる。

11  被告人中下十郎

被告人長谷三平(一一〇公)、同實山七雄(一〇二公)及び被告人中下十郎(一二八公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  ML派に所属し、同派の岩山団結小屋に常駐していたこと

(二)  九月一四日ころ、岩山青行が火炎びんを製造した際、秋山八男から依頼されて右火炎びんの製造を手伝ったこと

(三)  本件犯行当日、ヘルなしの闘争スタイルで小屋場台に赴き、同所で本件集団に加わり、横堀公民館前で長さ約一五〇センチメートルの丸棒を所持したうえ、以後、本件集団とともに県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

が認められる。

12  被告人山田一夫

大宮育雄の検面(四七・二・一七付)及び被告人山田一夫(一三〇公)の供述によれば、同被告人は、

(一)  新潟大学の学生であるが、宇大全共闘とともに行動していたこと

(二)  本件犯行前日の夜、宇大団結小屋で開かれた宇大全共闘の会議に出席したこと

(三)  本件犯行当日、黒ヘルを着用し、宇大全共闘の一員として小屋場台に赴いて本件集団に加わり、同所で火炎びん、県有林で丸棒を所持したうえ、集団とともに行動し、右県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したことが認められる。

13  被告人今田十夫

(兇準、公妨事件)

岡林茂の検面(四七・一・九付、一・一〇付、一・一二付、一・一三付)、被告人岡山二夫(一二九公)及び被告人今田十夫(一二九公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  叛旗派に所属し、本件犯行前日の夜、辺田公民館で開かれた全体集会、その後叛旗団結小屋での地区代表者会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、赤ヘルを着用し、叛旗派の約五〇名の指揮者として、右部隊を率いて小屋場台に赴き、同所で火炎びん、丸太棒で武装させ、その後、本件集団とともに、先発隊として県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

(三)  この間、十字路で、堀田大隊に対する攻撃を敢行させたこと

(現住建造物等放火事件)

池田寛二の検面(四七・二・一五付)、岡林茂の検面(四七・一・二六付)、被告人岡谷一男の検面(四七・七・一〇付、七・一三付、七・一四付)、池田寛二(五七公)、岡林茂(五八公)、被告人岡谷一男(一三二公)及び被告人今田十夫(一三二公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  昭和四六年九月二〇日夕方から、中郷山林内で開かれた諸セクト代表のリーダー会議のあと、同所で開かれた地区代表者会議に出席したこと、右地区代表者会議では、リーダー会議に出席した被告人岡谷から、小泉よね方に対する抜打ち代執行に報復するとともに新空港建設を阻止するため、千代田農協近くの空港関連建設会社を襲って焼打ちする、各セクトにおいて突撃部隊とこれを防衛する防衛隊を作ることなどの戦術が伝えられ、決定されたこと

(二)  被告人今田は、叛旗派部隊の指揮者として右部隊を率いて本件犯行現場に赴き、本件現住建造物等放火事件を敢行したこと

が認められる。

14 被告人岡山二夫

前示(被告人岡山二夫、同山村八夫の共謀責任について)のとおり。

15 被告人岡川三夫

石川洋の検面(四七・七・八付)及び被告人岡川三夫(一一〇、一一一公)の供述によれば、同被告人は、

(一)  ブンド情況派に属し、昭和四六年八月下旬ころから現地入りして同派の世話役的役割をし、また、リーダーを補佐していたこと

(二)  本件犯行当日、赤ヘルを着用して情況派部隊とともに小屋場台に赴き、本件集団に合流し、以後、本件集団と行動をともにしたこと

(三)  県有林で丸棒を所持したうえ、後発隊として県有林、小見川県道から西進し、十字路で本件集団が堀田大隊を攻撃した際これに加わり、その後、十字路から丹波山に移動したこと

が認められる。

16 被告人D

出山博の検面(四七・一・三付、一・六付、一・八付)及び被告人D(一一三公)の供述等によれば、同被告人は、

(一)  三高協の議長を務め、昭和四六年九月上旬及び中旬、芝山農協で開かれた三高協会議を主宰し、青行らとともに闘う方針を打ち出したこと

(二)  同年九月中旬、三高協が火炎びん約八〇本を製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前に丸棒で所持し、先発隊として、県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したこと

(四)  本件集団が、十字路で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、投石するなどしたこと

が認められる。

17 被告人鈴村四夫

被告人島山八雄(一二三公)及び被告人鈴村四夫(一二二公)の各供述等によれば、同被告人は、

(一)  プロ学同に所属し、同派の中谷津団結小屋に常駐していたこと

(二)  本件犯行前日の中谷津青年館での共労党・プロ学同の会議に出席したこと

(三)  本件犯行当日、黒と茶のまだらヘルを着用し、同派部隊の一員として加わり、中谷津共同墓地で丸太棒を所持したうえ、小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、先発隊として県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

(四)  本件集団が、十字路で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わったこと

が認められる。

18 被告人岡谷一男

(兇準、公妨事件)

石川洋の検面(四七・三・二一付)、被告人今田十夫(一二九公)、同岡山二夫(一二九公)及び被告人岡谷一男(一二九公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  叛旗派に所属し、現闘団の幹部会の一員であったこと

(二)  昭和四六年九月上旬、中谷津青年館での青行、諸セクトの代表による全体会議、本件犯行前日の叛旗派団結小屋での地区代表者会議に出席したこと

(三)  本件犯行当日、赤ヘルを着用し、同派部隊の指揮者今田十夫を補佐して同派部隊とともに小屋場台に赴き、本件集団と合流し、以後、本件集団と行動を共にし、先発隊として県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動した

(四)  十字路で、本件集団が堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わったこと

(現住建造物等放火事件)

池田寛二の検面(四七・二・一五付)、岡林茂の検面(四七・一・二六付)、被告人岡谷一男の検面(四七・七・一〇付、七・一三付、七・一四付)、池田寛二(五七公)、岡林茂(五八公)、被告人今田十夫(一三二公)及び被告人岡谷一男(一三二公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  昭和四六年九月二〇日夕方から、中郷山林内で開かれた諸セクト代表によるリーダー会議に叛旗派の代表として出席し、その後、同所で開かれた叛旗派の地区代表者会議に出席し、闘争方針、戦術を伝えるとともに、同被告人が防衛隊の副隊長となることを決めたこと

(二)  防衛隊副隊長として防衛隊を率い、本件犯行に際し、突撃隊の後方支援にあたったこと

が認められる。

19 被告人深山五夫

石川洋の検面(四七・三・二一付)、岡林茂の検面(四七・一・九付、一・一〇付、一・一三付)、池田寛二の検面(四七・二・一〇付)、被告人岡山二夫(一二九公)及び同今田十夫(一二九公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  叛旗派に所属し、本件犯行前日の叛旗派の全体集会及び地区代表者会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、叛旗派部隊の副指揮者として同派部隊を率いて小屋場台に赴き、本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、先発隊として県有林、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したこと

(三)  本件集団が十字路で堀田大隊を攻撃した際、同派部隊に対し「突撃」と号令し、火炎びんを投てきさせるなどしたことが認められる。

20 被告人村中六夫

前川啓二の検面(四七・六・二五付)、被告人秋山八男(一〇三公)及び被告人村中六夫(一二七公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  反帝学評の拠点大清水団結小屋に常駐し、同派のリーダー的役割を果していた

(二)  昭和四六年九月上旬、中谷津青年館で開かれた青行、諸セクト代表者による全体会議及び本件犯行前日、中谷津団結小屋で行なわれた青行、諸セクト代表者による最終連絡会議に反帝学評の代表として出席したこと

(三)  本件犯行当日、小屋場台に赴き、同派の部隊とともに本件集団に加わり、以後、集団とともに行動し、後発隊として県有林、小見川県道、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が、十字路において堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わっていたこと

(四)  本件集団が県有林で小休止中、同所で行なわれた県有林会議に、同派の代表として出席したこと

が認められる。

21 被告人柳七夫

池田寛二の検面(四七・二・八付)及び石川洋の検面(四七・三・二四付)によれば、同被告人は、

(一)  叛旗派に所属し、現闘団の一員であったこと

(二)  本件犯行前日、辺田公民館で行なわれた叛旗派の全体集会及び叛旗派団結小屋での地区代表者会議に出席したこと

(三)  本件犯行当日、梅川五郎とともに武器運搬を担当し、かねて同派が製造しておいた火炎びん約八〇本、丸太棒約一五〇本を小型トラックで小屋場台に運搬し、同所で同派部隊にこれを配布したこと

(四)  それより先、辺田公民館前において、同派の部隊が出発するに際して行われた集会で、本件闘争の意義等を演説し、部隊員の士気を鼓舞したこと

が認められる。

22 被告人山村八夫

前示(被告人岡山二夫、同山村八夫の共謀責任について)のとおり。

23 被告人吉川九夫

被告人秋山二男(一三〇公)及び被告人吉川九夫(一一三公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  もとML派に所属していたものであるが、本件闘争に参加する決意をもって本件犯行の前日現地に入り、同夜は青葉義光方で宿泊したこと

(二)  本件犯行当日、白ヘルメットを着用し、秋山二男とともに横堀公民館に赴き、同所で出会った尾野勇喜雄らと一緒に県有林へ向かい、そこで本件集団と合流し、同所で丸棒を所持したうえ、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(三)  先発隊として県有林を出発し、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動したこと

(四)  この間、本件集団が十字路において堀田大隊に攻撃を加えた際、集団の一員としてこれに加わっていたこと

が認められる。

24 被告人相田六男

被告人笹野九郎(九一公)、被告人秋山一郎(九九公)、同龍川九平(一〇八公)及び被告人相田六男(一二七公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  千代田青行に所属し、昭和四六年九月上旬、芝山農協での青行の全体会議に出席したこと

(二)  同月中旬、千代田青行が火炎びん約一五〇本を製造した際、右製造に加わったこと

(三)  本件犯行当日、オートバイ用の白ヘルを着用して笹野らとともに小屋場台に赴き、同所で丸棒を所持して本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したこと

(五)  この間、本件集団が、十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わったこと

が認められる。

25 被告人秋山八郎

被告人栁田八平(一一三公)、同岩川三男(九一公)及び被告人秋山八郎(一〇三、一〇七公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  岩山青行のリーダーを務め、昭和四六年九月上旬、中谷津青年館での各青行、諸セクト代表による代表者会議、同月一五日の中谷津団結小屋での最終連絡会議のほか、東部落公民館でのリーダー会議、岩山公民館での岩山青行会議に出席し、岩山青行会議においては「これが最後の闘争になるかも知れないから、全員参加し、しっかりやってもらいたい。」旨発言していること

(二)  同月中旬、岩山青行において二〇〇本以上の火炎びんを製造した際、ML派の中下十郎を招いて指導を受けるなどし、被告人も右製造に加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、岩山青行を率いて小屋場台に赴き、同所で丸太棒を所持して本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  本件集団が県有林で小休止中、県有林会議に出席したうえ、「十字路にいる堀田大隊を攻撃して駒井野へ向かう。」旨の会議の結果を岩山青行に伝えたこと、

(五)  その後、県有林を出発、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路で堀田大隊を攻撃した際、この集団とともにこれに加わったこと

が認められる。

26 被告人秋山二男

被告人前川六平(八五公)、同秋山八郎(一〇三公)、同市村四郎(一二九、一三一公)及び被告人秋山二男(一三〇公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  青行全体のリーダー的存在で、昭和四六年九月上旬、芝山農協で行なわれた青行の全体会議、同月一〇日ころの中郷公民館での菱田の青行会議に出席したこと

(二)  同月一四日ころ、菱田青行が三の宮方で約一〇〇本の火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、吉川九夫とともに自宅から横堀公民館付近に赴き、同所にいた秋山一郎、尾野勇喜雄らと合流して県有林に行き、同所で本件集団と合流し、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  先発隊の一員として他の青行の者とともに県有林を出発し、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、右集団の一員として堀田大隊に対する攻撃に加わったこと

(五)  県有林において、寺川二平に対し「青行をまとめろ。」と言ったり、十字路において、秋山八男と「青行を引き揚げさせよう。」と話したこと

が認められる。

27 被告人石田九男

被告人C(九六公)、同長谷三平(一一〇公)及び被告人石田九男(一二六公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  岩山青行に所属し、昭和四六年九月一二日ころの岩山公民館での岩山青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、岩山青行が火炎びん二〇〇本以上を製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用して小屋場台に赴き、横堀公民館で丸棒を所持したうえ、本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  先発隊として青行の者とともに県有林を出発し、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、十字路に警察部隊がいることを知り、本件集団とともに、右警察官に対する攻撃に加わったこと

が認められる。

28 被告人石田十男

被告人秋山八男(一〇三公)、同島川九雄(八七公)及び被告人石田十男(八八、八九公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  青行全体を代表する存在であったとともに三里塚青行のリーダー的存在で、昭和四六年九月上旬、芝山農協での青行の全体会議に出席したこと

(二)  本件犯行の二、三日前ころ、三里塚青行が丸棒、竹竿を作った際、島川、梅田らとともに、丸棒、竹竿の製造に加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用して島川九雄らとともに小屋場台に赴き、その後、島川とともに、被告人らが製造した丸棒、竹竿を隠匿場所から横堀公民館前まで運び、これを本件集団に配布するとともに、自らも、丸棒を所持して本件集団に加わったこと

(四)  本件集団とともに県有林を出発し、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わっていたこと

が認められる。

29 被告人石田一雄

被告人岩川三男(九一公)、同C(九六公)及び被告人石田一雄(一二六公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  岩山青行に所属し、昭和四六年九月上旬の岩山公民館での岩山青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、岩山青行が火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、岩山青行の者とともに小屋場台に赴き、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で丸棒を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わっていたこと

が認められる。

30 被告人C

被告人岩川三男(九一公)、同植田二雄(九八公)及び被告人C(九六、九八公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  岩山青行に所属し、昭和四六年九月一二日ころ、岩山公民館で行なわれた岩山青行会議に出席したこと

(二)  同月中旬、岩山青行が火炎びんを製造した際、空びんを調達するなどして協力したこと

(三)  本件犯行当日、岩山青行の者とともに小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で丸棒を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わったこと

が認められる。

31 被告人岩川三男

被告人C(九六公)、同長谷三平(一一〇公)及び被告人岩川三男(九一、九三公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  岩山青行に所属し、昭和四六年九月上旬の芝山農協での青行の全体会議及び同月一二日ころの岩山公民館での岩山青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、岩山青行が火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘル、闘争スタイルで岩山青行の者とともに小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で丸棒を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路周辺で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わったことが認められる。

32 被告人植田二雄

被告人岩川三男(九一公)、同C(九六公)及び被告人植田二雄(九八、九九公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  岩山青行に所属し、昭和四六年九月一二日ころの岩山公民館での岩山青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、岩山青行が火炎びんを製造した際、空びんを調達するなどしてこれに協力したこと

(三)  本件犯行当日、白ヘル、闘争スタイルで小屋場台に赴いて岩山青行の者らとともに本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で丸棒を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、投石したり、丸棒で突くなどしたこと

が認められる。

33 被告人梅田三雄

被告人島川九雄(八七公)、同石田十男(八八公)及び被告人梅田三雄(一三〇公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  三里塚青行に所属し、被告人石田十男に誘われて本件闘争に加わることを決意したこと

(二)  同月中旬、三里塚青行が県有林内で丸棒、竹竿を製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘル、闘争スタイルで被告人石田十男らとともに小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で丸棒を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路周辺で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わったこと

が認められる。

34 被告人梅山四雄

被告人大川八郎(一二七公)及び被告人梅山四雄(一二八公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  人民連帯に所属し、同派の中郷団結小屋に常駐し、本件犯行の前日、中郷団結小屋で開かれた人民連帯の全体会議に参加したこと

(二)  本件犯行当日、黒ヘルを着用し、丸棒を所持して小屋場台に赴き、同所において本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(三)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わったこと

が認められる。

35 被告人A

被告人秋山一郎(九九公)、同小平七郎(一〇二公)、同龍川九平(一〇八公)及び被告人A(九四公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月上旬の芝山農協での青行の全体会議、同月一〇日ころの中郷公民館での菱田青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が三の宮文男方で火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘル、闘争スタイルで丸棒を所持して小屋場台に赴き、同所で本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で別の丸棒に取替え所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わり、自らも投石するなどしたこと

が認められる。

36 被告人B

被告人前川六平(八五公)、同小平七郎(一〇二公)及び被告人B(八九公、九〇公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月上旬の芝山農協での青行の全体会議、同月一〇日ころの中郷公民館での菱田青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が寺川二平方で火炎びんを製造した際これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘル、闘争スタイルで小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で丸棒を所持し、県有林で鍬の柄と取替えたこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わり、自らも投石するなどしたこと

が認められる。

37 被告人奥山五雄

共犯者並木幸雄(七六公)、被告人鈴村四夫(一二二公)、同島山八雄(一二三公)及び被告人奥山五雄(一二一公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  プロ学同に所属し、同派の中谷津団結小屋に常駐し、本件犯行当日、現闘団(常駐組)の一員として加わったこと

(二)  本件犯行当日の中谷津青年館での共労党・プロ学同の全体会議に出席したこと

(三)  本件犯行当日、黒と茶の斑ヘルを着用し、闘争スタイルで中谷津青年館を出発し、途中、中谷津共同墓地で丸棒を所持して小屋場台へ赴き、同所で本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(五)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、右攻撃に加わったことが認められる。

38 被告人E

被告人齊田六雄(一〇八公)及び被告人E(一〇八公、一〇九公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  千代田青行に所属し、昭和四六年九月上旬、芝山農協で開かれた青行の全体会議に出席したこと

(二)  同月中旬、千代田青行が火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、小屋場台に赴いて本件集団に加わり、横堀公民館前で丸棒を所持し、県有林で白ヘルを着用したうえ、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、投石したりしていること

が認められる。

39 被告人林五男

被告人寺川二平(九四公)、同戸田四男(一二八公)及び被告人林五男(一一三公、一一四公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月一〇日ころ中郷公民館での菱田青行会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が寺川二平方で火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘル、闘争スタイルで丸棒を所持して小屋場台に赴き、同所で本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、投石したり、倒れている機動隊員を棒で突くなどしたこと

が認められる。

40 被告人齊田六雄

被告人前川六平(八五公)、同D(一一三公)及び被告人齊田六雄(一〇八公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月一〇日ころの中郷公民館での菱田青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が火炎びんを製造した際、空びんを調達するなどしてこれに加わったこと

(三)  本件犯行当日、弟である被告人Dとともに小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で丸棒を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が、十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、自らも投石するなどしたこと

が認められる。

41 被告人實山七雄

被告人長谷三平(一一〇公)、同石田九男(一二六公)及び被告人實山七雄(一〇二公、一〇三公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  岩山青行に所属し、昭和四六年九月中旬、同青行のリーダーであった被告人秋山八男から誘われて本件闘争に参加することを決意したこと

(二)  同月中旬、岩山青行が火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、闘争スタイルで他の岩山青行の者とともに小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で丸棒を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路周辺で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わったこと

が認められる。

42 被告人島山八雄

被告人奥山五雄(一二一公)、同鈴村四夫(一二二公)及び被告人島山八雄(一二三公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  プロ青同(プロレタリア青年同盟)に所属し、同派の中谷津団結小屋に常駐し、本件犯行前日の中谷津青年館での共労党・プロ学同の全体会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、黒と茶の斑ヘルを着用し、闘争スタイルで現闘団の常駐組の一員として中谷津青年館を出発し、途中、中谷津共同墓地で丸棒を所持して小屋場台に赴き、同所において本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(三)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、右攻撃に加わったこと

が認められる。

43 被告人島川九雄

被告人石田十男(八八公)及び被告人島田十男(八七公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  三里塚青行に所属し、自ら本件闘争に参加する決意を有していたこと

(二)  各青行、諸セクトによって決定された武器調達の方針に従って、昭和四六年九月中旬三里塚青行が県有林内で丸棒、竹竿、竹槍を製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、闘争スタイルで小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  小屋場台に到着後、石田十男とともに前記丸棒、竹竿、竹槍を隠匿場所から横堀公民館前に運搬し、同所で本件集団にこれを配付するとともに、自らも丸棒を所持したこと

(五)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、投石するなどしたこと

が認められる。

44 被告人寺川二平

被告人前川六平(八五公)、同戸田四男(一二八公)及び被告人寺川二平(九四公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月上旬の芝山農協での青行全体会議、同月一〇日ころの中郷公民館での菱田青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が被告人宅で火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、闘争スタイルで小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で竹槍を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が小見川県道上で幌付警察車両を攻撃した際これに加わり、所携の竹槍で車体を叩いたり、十字路付近で堀田大隊を攻撃した際にもこれに加わり、投石するなどしたこと

が認められる。

45 被告人戸田四男

被告人前川六平(八五公)、同寺川二平(九四公)及び被告人戸田四男(一二八公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月一〇日ころ開かれた中郷公民館での菱田青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が寺川二平方で火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、闘争スタイルで丸棒を所持して小屋場台に赴き、同所で本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が小見川県道上で幌付警察車両を攻撃した際これに加わり、所携の丸棒で叩いたり、十字路付近で堀田大隊を攻撃した際にもこれに加わり、投石するなどしたこと

が認められる。

46 被告人長谷三平

被告人岩川三男(九一公)、同C(九六公)、同植田二雄(九八公)及び被告人長谷三平(一一〇公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  岩山青行に所属し、昭和四六年九月一二日ころの岩山公民館での青行の全体会議に出席したこと

(二)  同月中旬、岩山青行が火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、闘争スタイルで他の岩山青行の者とともに小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、県有林で丸棒を所持したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、倒れている機動隊員を棒で突くなどしたこと

が認められる。

47 被告人広川四平

被告人秋山八男(一〇三公)、同栁田八平(一一三公)、同村中六夫(一二七公)、同古山五平(一三一公)及び被告人広川四平(一三一公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  日中のリーダーを務め、昭和四六年九月上旬、同派の中谷津団結小屋での日中の常駐者会議を主宰し、同派の部隊編成を行い、同月一五日の中谷津団結小屋での青行・諸セクト代表による最終連絡会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、黒と茶の斑ヘルを着用し、闘争スタイルで、約五〇名の日中の部隊を率い、自ら火炎びん、丸棒を所持して小屋場台に赴き、同所において本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(三)  本件集団が県有林で小休止中、日中を代表して県右林会議に出席し、会議の結果を同派の者に伝えたこと

(四)  先発隊として同派の者を率いて県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪突出後、福島小隊の攻撃に加わり、北林事務所北方まで北上した後引返し、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したこと

が認められる。

48 被告人古山五平

被告人広川四平(一三一公)及び被告人古山五平(一三一公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  日中に所属し、同派の現地常駐者で、広川四平に次ぐリーダーを務め、昭和四六年九月上旬の中谷津青年館及び東部落公民館での青行・諸セクト代表者による全体会議並びに同月一五日に中谷津団結小屋で開かれた青行・諸セクト代表による最終連絡会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、黒と茶の斑ヘルを着用し、闘争スタイルで丸棒を所持し、日中の部隊とともに小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(三)  本件集団が県有林で小休止中、諸部隊の調整役として県有林会議に出席したこと

(四)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪突出後、福島小隊を攻撃している同派の者とともに北上し、北林事務所、飯田方交差点を右折し、ぐるっと一周して十字路に至り、同所から丹波山、中谷津共同墓地へと移動したことが認められる。

49 被告人前川六平

被告人B(八九公)、同寺川二平(九四公)及び被告人前川六平(八五公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月一〇日ころの中郷公民館での菱田青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が寺川二平方で火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、黒ヘルを着用し、闘争スタイルで小屋場台に赴いたが、本件集団が出発した後であったため、これを追いかけ、横堀公民館前で丸棒を所持し、県有林で休憩中の本件集団に追いついて合流し、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  他の青行の者とともに先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路周辺で堀田大隊を攻撃した際、集団の一員としてこれに加わったこと

が認められる。

50 被告人町七平

被告人C(九六公)、同長谷三平(一一〇公)及び被告人町七平(一一〇公)の各供述によれば、同被告人は

(一)  岩山青行に所属し、昭和四六年九月一二日ころの岩山公民館での岩山青行の会議に出席したこと

(二)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、他の岩山青行の者とともに小屋場台に赴いて本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にし、横堀公民館前で竹竿を所持したこと

(三)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、投石するなどしたこと

が認められる。

51 被告人栁田八平

被告人秋山八男(一〇三公)、同村中六夫(一二七公)、同広川四平(一三一公)及び被告人栁田八平(一一三公、一一四公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行のリーダーを務め、昭和四六年九月上旬中谷津青年館及び東部落公民館で開かれた青行・諸セクト代表による全体会議、同月上旬の芝山農協での青行全体会議、同月一五日の中谷津団結小屋での青行・諸セクト代表による最終連絡会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が火炎びんを製造した際、三の宮文男とともにドラム缶三本のガソリンを購入して、その製造に協力したこと

(三)  本件犯行当日、黒ヘルを着用して小屋場台に赴き、同所で鍬の柄様の棒を所持して本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  本件集団が県有林で小休止中、同所で開かれた青行・諸セクト代表による県有林会議に出席したこと

(五)  先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、自らも投石するなどしたこと

が認められる。

52 被告人龍川九平

被告人寺川二平(九四公)、同C(九六公、九八公)、同戸田四男(一二八公)及び被告人龍川九平(一〇八公)の各供述によれば、同被告人は、

(一)  菱田青行に所属し、昭和四六年九月上旬の芝山農協での青行全体会議、同月一〇日ころの中郷公民館での菱田青行の会議に出席したこと

(二)  同月中旬、菱田青行が三の宮文男方で火炎びんを製造した際、これに加わったこと

(三)  本件犯行当日、白ヘルを着用し、丸棒を所持して小屋場台に赴き、同所で本件集団に加わり、以後、本件集団と行動を共にしたこと

(四)  県有林で火炎びんを所持し、先発隊として県有林を出発し、小見川県道を横切り、ガサ藪、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと移動したが、この間、本件集団が十字路付近で堀田大隊を攻撃した際、これに加わり、自らも投石したこと

が認められる。

(確定裁判)

被告人天川二郎

被告人天川二郎は、昭和四六年九月二三日浦和地方裁判所において、道路交通法違反、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反の罪により懲役三月、一年間執行猶予に処せられ、同年一〇月八日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

被告人市村四郎

被告人市村四郎は、昭和五二年三月二二日東京地方裁判所において、恐喝、昭和二五年都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反の罪により懲役一年八月、三年間執行猶予に処せられ、同年四月六日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

被告人梅川五郎

被告人梅川五郎は、昭和五〇年二月六日東京地方裁判所において、兇器準備集合、公務執行妨害、現住建造物等放火未遂の罪により懲役三年、五年間執行猶予に処せられ、昭和五二年五月一〇日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

被告人山田一夫

被告人山田一夫は、昭和五六年三月一一日千葉地方裁判所において、公務執行妨害の罪により懲役一年二月、三年間執行猶予に処せられ、同月二六日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

被告人岡山二夫

被告人岡山二夫は、昭和四五年四月二七日東京地方裁判所において、住居侵入、兇器準備集合、公務執行妨害の罪により懲役一年八月、二年間執行猶予に処せられ、同年五月一二日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

被告人岡川三夫

被告人岡川三夫は、昭和四七年一二月二〇日東京地方裁判所において、兇器準備集合、公務執行妨害、傷害の罪により懲役一年六月、三年間執行猶予に処せられ、昭和四八年一月五日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

被告人深山五夫

被告人深山五夫は、昭和五〇年二月六日東京地方裁判所において、兇器準備集合、公務執行妨害、現在建造物等放火未遂の罪により懲役三年、五年間執行猶予に処せられ、昭和五一年六月一六日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によりこれを認める。

被告人柳七夫

被告人柳七夫は、昭和五二年五月四日東京高等裁判所において、兇器準備集合、公務執行妨害、現住建造物等放火未遂の罪により、懲役三年、五年間執行猶予に処せられ、同月一九日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

被告人今田十夫

被告人今田十夫は、昭和四九年九月六日東京地方裁判所八王子支部において、兇器準備集合、傷害、暴行の罪により懲役五月、二年間執行猶予に処せられ、同月二一日右裁判が確定したことは、検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

被告人長谷三平

被告人長谷三平は、昭和五二年七月二九日千葉地方裁判所において、傷害の罪により懲役一〇月、四年間執行猶予に処せられ、右裁判が同年八月一三日確定したことは検察事務官作成の同被告人に対する前科調書及び右判決書謄本によってこれを認める。

(法令の適用)

被告人秋山一郎、同F、同天川二郎、同石谷三郎、同市村四郎、同梅川五郎、同小平六郎、同小平七郎、同川八郎、同笹野九郎、同中下十郎、同山田一夫の判示第一の所為は刑法六〇条、二〇八条の二の一項、罰金等臨時措置法三条一項一号(刑法六条、一〇条により、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法を適用)に該当するので、所定刑中いずれも懲役刑を選択し、なお、被告人天川二郎、同市村四郎、同梅川五郎、同山田一夫については、右罪と前記各確定裁判のあった罪とは刑法四五条後段の併合罪なので、同法五〇条によりまだ裁判を経ない判示罪についてさらに処断することとし、各所定刑期の範囲内で、被告人岡山二夫、同岡川三夫、同D、同鈴村四夫、同深山五夫、同村中六夫、同柳七夫、同山村八郎、吉川九夫の判示第一の所為は刑法六〇条、二〇八条の二の一項、罰金等臨時措置法三条一項一号(前同様、行為時の罰金等臨時措置法による)に、判示第二の所為は刑法六〇条、九五条一項に該当するので、所定刑中いずれも懲役刑を選択し、なお、被告人岡山二夫、同岡川三夫、同深山五夫、同柳七夫については、右各罪と前記各確定裁判のあった罪とは刑法四五条後段の併合罪なので、同法五〇条によりまだ裁判を経ない判示各罪についてさらに処断することとし、以上は、いずれも同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条によりいずれも重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で、被告人今田十夫、同岡谷一男の判示第一の所為は刑法六〇条、二〇八条の二の一項、罰金等臨時措置法三条一項一号(前同様、行為時の罰金等臨時措置法による)に、判示第二の所為は刑法六〇条、九五条一項に、判示第四の所為は刑法六〇条、一〇八条に該当するので、各所定刑中、判示第一、第二の罪につきいずれも懲役刑を、判示第四の罪については有期懲役刑を選択し、なお、被告人今田十夫については、判示各罪と前記確定裁判のあった罪とは刑法四五条後段の併合罪なので、同法五〇条によりまだ裁判を経ない判示各罪についてさらに処断することとし、以上は、いずれも同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により最も重い判示第四の罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をし、さらに後記情状を考慮し、同法六六条、七一条、六八条三号を適用して酌量減軽をした刑期の範囲内で、被告人相田六男、同秋山八男、同秋山二男、同石田九男、同石田十男、同石田一雄、同C、同岩川三男、同植田二雄、同梅田三雄、同梅山四雄、同A、同B、同奥山五雄、同E、同林五男、同齊田六雄、同實山七雄、同島山八雄、同島川九雄、同寺川二平、同戸田四男、同長谷三平、同広川四平、同古山五平、同前川六平、同町七平、同栁田八平、同龍川九平の判示第一の所為は刑法六〇条、二〇八条の二の一項、罰金等臨時措置法三条一項一号(前同様、行為時の罰金等臨時措置法による)に、判示第二の所為は刑法六〇条、九五条一項に、判示第三の所為中、傷害の点は刑法六〇条、二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号(前同様、行為時の罰金等臨時措置法による)に、傷害致死の点は刑法六〇条、二〇五条一項に該当するところ、判示第二の公務執行妨害と判示第三の傷害、傷害致死は、一個の行為で三個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の最も重い柏村信治に対する傷害致死の罪の刑で処断することとし、判示第一の罪については所定刑中懲役刑を選択し、なお、被告人長谷三平については、判示各罪と前記確定裁判のあった罪とは刑法四五条後段の併合罪なので、同法五〇条によりまだ裁判を経ない判示各罪についてさらに処断することとし、以上は、いずれも同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により重い前記傷害致死の罪の刑に同法四七条但書の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で各被告人をそれぞれ主文掲記の各刑に処し、被告人梅川五郎、同深山五夫に対しては同法二一条を適用して未決勾留日数中主文掲記の各日数をそれぞれの刑に算入し、後記情状により、各被告人に対し同法二五条一項を各適用してこの裁判の確定した日からそれぞれ主文掲記の各期間その刑の執行を猶予し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文により別紙訴訟費用負担表のとおり各被告人に負担させることとする。

(被告人葵七男、同曽一平、同杉下十雄に対する無罪理由について)

右被告人らに対する兇準、公妨、傷害、傷害致死事件についての公訴事実の要旨は、理由欄冒頭記載のとおりであり、検察官の冒頭陳述、公訴事実及び冒頭陳述に対する釈明によれば、右被告人らは、いずれも、本件犯行当日、丸太棒を所持して本件集団に加わった後、集団とともに県有林、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動し、その際、十字路北方において、被告人葵、同曽は福島誠一に対し、被告人杉下は森井信行を、それぞれ所携の丸太棒で殴打する暴行を加えたという実行正犯として起訴されたものであることが認められるが、これに沿う証拠としては、並木幸雄の検面(四七・八・三付)及び被告人寺川二平の検面(四七・九・一一付)があるに過ぎない。

そして、並木検面について、その信用性が認められないことは前述のとおりである。

被告人寺川の右検面は、被告人曽につき「本件犯行当日、黒田(被告人曽の組織内での通称)の姿を丹波山や中谷津で見ている。見かけたとき、ヘルメットはかぶっていませんでした。棒なども持っていませんでした。」、被告人杉下について「青山(被告人杉下)を丹波山で見ている。ヘルメットをかぶり、闘争スタイルでしたが、棒や火炎びんの点ははっきりしません。」、被告人葵につき「ひげ(被告人葵)を丹波山で見た。闘争スタイルでヘルメットかぶっていた。」というものであるが、被告人寺川二平の検面について信用性が認められないことは前述のとおりであるばかりでなく、右検面は、同人が起訴された後、プロ学同に属する人物を写真を示して特定、供述した際に述べられたに過ぎないもので、証拠価値の乏しいものといわざるを得ないものである。仮りに、百歩譲って、右供述を全面的に信用するとしても、右のような供述をもって直ちに、右被告人らが、本件犯行当日、丸太棒をもって本件集団に加わったうえ、県有林、十字路を経て、丹波山、中谷津共同墓地へと集合移動し、この間、十字路北方において、福島誠一、あるいは森井信行を所持した丸太棒でそれぞれ殴打したとの事実を認めるに足りる証拠であるとは到底認められない。

そして、ほかに、被告人らの本件犯行当日における行動を認めるに足りる証拠のない本件においては、被告人曽、同杉下のアリバイに関する主張について判断をするまでもなく、結局いずれも犯罪の証明がないことに帰するから、刑訴法三三六条により、被告人葵、同曽、同杉下に対し無罪の言渡をする。

(量刑理由)

本件は、被告人らを含む約六〇〇ないし七〇〇名の青行、三高協とこれを支援する諸セクトの者が共謀のうえ、いわゆる第二次代執行地及びその周辺における警戒、違法行為の規制、違法行為者の検挙等の任務に従事する多数の警察官らの生命、身体、財産に対して共同して危害を加える目的をもって、丸棒、竹竿、火炎びん等の兇器を準備したうえ、小屋場台から東峰十字路を経て丹波山山林に至る間を集合移動し、この間、東峰十字路周辺において、前記任務に従事中の千葉県警察本部長指揮下の堀田大隊所属の多数の警察官に対し、石塊、火炎びんを投げつけ、丸棒、竹竿で突く、殴るなどの暴行を加えて右警察官らの職務の執行を妨害し、その際、右暴行により、福島小隊所属の警察官柏村信治ら三名の警察官を死亡させたほか、川田三郎ら七名の警察官に判示のような各傷害を負わせ、更に、被告人今田十夫、同岡谷一男の両名は、小泉よね方に対する抜打ち代執行に対する報復や新空港建設を阻止するためと称し、ブンド叛旗派の者らと共謀して、新空港建設に携わっていたフジタ工業等の工事会社を襲い、火炎びんを投げつけるなどして作業員宿舎等を焼燬したというものであるところ、その犯行の態様は、大規模かつ組織的になされ、しかも、多数の火炎びん、丸棒、竹竿等を準備携行して敢行された極めて悪質な集団暴力事犯といわざるを得ない。

確かに、新空港の建設については、その位置決定の当初から問題をはらんでおり、とりわけ、当時推進されていた農業振興策を反古にして、突然、現在地に決定した経緯には、地元農民の理解と協力を求めようとする姿勢が必ずしも十分であったとは思われず、また、その後、本件当時までの建設過程における公団等関係諸機関の対応も、反対同盟やこれを支援する諸セクトの激しい抵抗があったにせよ、ほぼ同様といわざるを得ず、このような点からすれば、事情の判らないまま、突然の決定により農地を失ない、或は生活に重大な影響を受けることとなる地元農民らが、新空港の建設に反対するに至った心情には、当裁判所としても理解しえないわけではないが、そうだからといって、如何なる反対行動も許されるわけではない。ことに、本件のように実力阻止を標榜して現行法秩序に挑み、手段を選ばず、過激な犯罪にも及ぶ実力行動を犯すに至っては、法治国家において到底許容されるものではなく、被告人らの罪責は重いといわざるを得ない。

ことに、福島小隊に対する被告人らの集団暴行は、単に兇器を所持した多人数による熾烈なものというばかりでなく、被告人らの急襲を受けて隊列を崩し、北方へ逃れる福島小隊を追いかけ、つまずいて転倒したり、被告人らの集団の暴行によって転倒し、ほとんど抵抗することもできなくなっている警察官を大勢で取り囲み、それぞれ手にした丸棒や竹竿で滅多打ちにして暴虐の限りを尽くし、三名の警察官を死亡させるとともに、多数の警察官に重軽傷を負わせるという非人間的、冷酷、残虐な集団暴力犯罪といわざるを得ないものである。そして、本件によって死亡した三名の警察官は、いずれも神奈川県下の各警察署に勤務していたもので、本件当日、偶々応援派遣され、東峰十字路付近において警戒警備、不審者の検問等の任務に従事中、被告人らの凶手によって、いわば撲殺されたものであって、被害者及びその遺族の無念さ、悲嘆さは察するに余りあるものがある。加えて、本件犯行の社会に与えた衝撃、影響も重大であったことなどにかんがみると、右犯行に及んだ被告人らの罪責は甚だ重いといわざるを得ない。

しかしながら、右福島小隊の攻撃に加わったとして傷害、傷害致死事件で起訴された被告人らについては、同被告人らが福島小隊員に対する暴行行為に直接加わったと認めるに足りる証拠はなく、共謀責任を負うに止まると認められるうえ、同被告人らの本件関与の状況、程度が、兇準、公妨事件のみで起訴された被告人らの関与の状況、程度とほとんど差異がないこと、そして、検察官の本件各公訴の提起の仕方が、福島小隊に対する攻撃に直接関与したとされる者を兇準、公妨、傷害致死事件で、福島小隊に対する攻撃に加わったことが認められない者を兇準、公妨事件で起訴したというものであることなどにかんがみると、たとえ、判示のとおり傷害、傷害致死についての共謀責任を負うとしても、科刑上、兇準、公妨事件のみで起訴された被告人と大きな差異をつけるのは、刑の権衡の面からしても相当でないと認められるものがある。

なお、被告人広川四平、同古山五平の両名は、当公判廷において、福島小隊の攻撃に加わったことを認める供述をしている者であるが、検察官の本件公訴の提起が、転倒していた警察官に対して、直接暴行を加えた者として起訴し、処断を求めているものであることなどに照らすと、右両名が、福島小隊に対する攻撃に加わり、北方に逃走する警察官を追跡して行ったというに止まり、それ以上に、本件各被害者に対しどのような暴行を加えたのか明らかでない以上、右両名に対し、殊更に重刑をもって臨むのは相当でない。

そして、諸々の原因があったにせよ、本件審理が長期に亘り、現在、本件事件発生から既に一五年もの歳月を経、この間、当時一八歳であった少年が三三歳の二男一女の父となり、一家の支柱となっていたり、あるいは、反対運動から離れて通常の社会人として生活しているなど、それぞれ生活に大きな変化を来たしているうえ、それぞれ有形、無形の社会生活上の不利益を受けて来ていると認められること、その他判明した限りでの各被告人らの個別的行為の内容、集団内での地位、役割、その後の生活状況等諸般の情状を考慮し、特に、被告人今田十夫、同岡谷一男については、兇準、公妨事件のほか、判示のように現住建造物等放火事件をも犯し、しかも、同被告人らの叛旗派内での地位、果たした役割等にかんがみると、犯情悪質であって、実刑に処するのが相当とも認められるところであるが、前述のように、事件発生後既に一五年もの歳月を経ていること、被告人岡谷には何らの前科もないこと、被告人今田には前科はあるものの、昭和五〇年四月以降一一年間処罰されていないこと、現在では、被告人今田は税理士、被告人岡谷は予備校講師としてそれぞれ平穏な生活をしていること、そして、前述のような諸事情、更に、一五年もの歳月を経た今日、今後なお被告人の座に留まらせることは余りにも酷に過ぎると思われることなどを考慮すると、主文のとおり量刑したうえ、その刑の執行を猶予するのが相当であると判断した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石田恒良 裁判官古口満、同駒井雅之は職務代行を解かれたため署名押印することができない。裁判長裁判官 石田恒良)

〈以下省略〉

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